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曖昧な自分で生きてゆく

夜更かしをしてしまう。時々、こうして眠れない日々が続く。毎日じゃない。ただ一日、二日だけ、ぽつぽつと、まるで忘れるのを脅かすように、朝まで起きている。今日もそんな日だ。何か不安があって眠れないのかな、と思って、書く瞑想もしてみた。ジャーナリングと呼ばれるものである。ひたすら、手が止まらないように、10分間だけ、ノートに書き続ける。浮かんでくる思い、不安、全て。書き終えたとき、満足感はある。すっきりした感じはあった。眠れなかったけど。

起きていても暇だから、日記を書いている。これはエッセイではない。日記だ。今日一日何があったとか、そういうやつではないけど。その時々の思いを、綴っている。実はそれ以外にも、色んな書いてる文字数とか、そういう記録もあるけど、noteにはそれは必要ないから、こうして日記部分だけを公開している。誰が読むんだろうと疑問にも思うけど、結局は、自分のためにしているに過ぎない。何だってそうだ。というか、根本的にはそうでないと、物事は続かないかもしれない。

僕はこれを、自分の心の整理のために書いている。誰かの役に立つ記事を書こうとするときもあるけど、そういうときに限って、上滑りしてる気がする。自分のために書いたものを、ついでのように公開すると、思いがけず、あとから自分で読んで、「ああ、面白いじゃん」と感じたりもする。書いたものは、別人のようになる。数日後、数ヶ月後、数年後に読むと、それぞれに違った実感をもたらす。書くというのはそういうことで、別人を生み出すものなのかもしれない。

本の整理をしていたら、数ヶ月前に読んだ『スマホ時代の哲学』を見つけた。これは面白かった。手放せない。こういう本をまた読みたい。哲学なのか、コミュニケーションへの学問なのか、それはわからないけど。思うに、本というのは基本的な底本は10冊くらいあればいいんじゃないだろうか。今の自分の基盤となる10冊。それは入れ替え可能で、その時々で違う。まるで血液のように、循環し、細胞のように、生まれ変わる。そんな10冊を求めたい。

ふと思うと、僕はコミュニケーションに関心があるのかな。レンタルコミックで借りてきたのは、オダトモヒト先生の『古見さんは、コミュ症です。』という漫画だ。考えてみれば、これも現代のコミュニケーションを扱ったものだ。人間関係。今という時代におけるそれに、関心があるのかもしれない。『湯神くんには友達がいない』も好きだったし。あれはどうしてアニメ化しないだろうってくらい、面白い漫画だった。時代をよく切り取っていた。

漫画はその人の興味・関心の分野が反映されているのかもしれない。僕は人間関係やコミュニケーション、それにおける哲学に興味があるし、スマホがあることで脅かされる言葉や対面の消失にも関心がある。心理学とは違う。あれはいま、科学的根拠とか実験みたいなものが重視され過ぎていて、どうにも肌に合わない。僕はより曖昧な、『スマホ時代の哲学』の谷川嘉浩さんから言わせれば、ネガティブ・ケイパビリティ的なものに興味がある。曖昧なものを、曖昧なままにしておく概念。生き方そのものが、曖昧だからかもしれない。

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