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言葉という暴れ馬を捕らえる

言葉を扱う、というのはどういう気分だろうと考える。たしかに僕らは、言葉を扱っているかもしれない。誰の言葉かは、わからないまま。自分の言葉のように考える。頭の中は見通せないというのに。この世に生まれ、生きてゆくなかで、言葉は覚えてゆく。逆に言えばそれは、自分が見聞きしていない言葉は、操れないということだ。

よく言語は思考と直結していると言われる。英語圏の人は、英語で考えるし、日本語圏の人は、日本語で考える。別の言語を覚えるとは、別の思考体系をその身に宿すということだ。別言語圏の人と話せるから、便利。国際的に役に立つ。それだけじゃない。思考体系が二倍になる。より扱える言語が増えれば、さらに思考体系は広がってゆく。

言葉にはイメージがある。日本語にあって、英語にない言葉。英語にあって、日本語にない言葉。それがその国の言語、文化に根ざしている。よく日本文学は湿っぽいと感じる。ずっと疑問だったけど、たぶん、その言語の特有さがイメージを生み出しているからだ。日本語には、「雨」の表現が無数にあると言う。「秋雨」「雷雨」「霧雨」「小雨」「雨滴」「緑雨」「甘雨」「涙雨」、などなど。挙げていけばキリがない。

湿っぽいとは、水っぽいということだ。雨の表現が無数にあることからわかるように、日本語はこの水っぽさと切っても切り離せない。もっと突き詰めて考えてみれば、日本という土壌が、言語を生み出した。湿気の多い土地、小国であり、島国でありながらも、各地で四季を体感できる一年。刃があり、血があり、家と、怪異がある。すべては湿っぽく、水っぽく、言語を形成していった。

そうして生まれた土地に根ざした言葉を僕らは扱っている。「自由」に扱うことはできない。言語は扱うものではなく、支配してくるものである。手綱を掴まなくてはならない。荒々しい馬を飼い慣らすように、言葉という、暴れるものをコントロールしなくてはならない。言葉は、縛りつけてくる。抵抗する。その繰り返しのなかに、表現が生まれるのかもしれない。

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