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【短編】右腕(2)

 見知らぬ人の右腕のある生活は愉快だった。まるで宝物を手に入れた気分だ。
 小学生や中学生の頃には、宝物はたくさんあった。ミニ四駆や、綺麗なビー玉や、マンガ雑誌など。でもそのどれもが、次第に色褪せていって、倉庫に押し隠したまま、忘れてしまう。もちろん、それでいいのだ。僕らは日々成長している。記憶も、思い出もどんどん膨れあがってしまい、頭の中には収まりきらなくなる。
 そうして、いらないものを捨てていく。もちろん、本当に捨てるわけではないから、何かの拍子にはっと思い出すことはあるだろう。しかし、その時点ではもう、取るに足らないものになっている。
 宝物ではない。ミニ四駆も、綺麗なビー玉も、マンガ雑誌も、もうそんなには僕をワクワクさせてくれない。きらきら光る、宝物ではなかった。
 それに比べると、右腕は今や僕の宝物だった。
 常に目の届くところに置いておきたい。眺めていたい。たまに手入れをして、綺麗な状態を保っておきたい。
 もしかしたら寒いかもしれない。服を着せるべきだろうか。着せるとしたら、どうやって? 普通の女性の服を買ってきて、右腕の部分を切り離せば良いだろうか。
 それを勿体ない、と思う感覚はなかった。右腕は今やもう僕の一部となっている。僕が服を着替えるなら、右腕も着替えるべきだ。僕が寒いなら、右腕もきっと寒いだろう。
 僕は車に乗って、服を買いに行った。自分の服も見たけど、右腕の服も見た。きっとこれならあの右腕に似合うだろうな、という服を買った。
 帰ってみると、母だけがいて、衣料品の袋を手にしている僕を見て、首をかしげた。
「服買いに行ったの?」
「うん」
 と僕は適当に答えた。
 この歳になると、何かをしていても、あまり深くまで詮索されることはない。
「そう。何買ったの?」
「パーカとか。コーデュロイのズボンとか……」
「へぇ、いいわね。コーデュロイのズボン、私も欲しいのよねぇ」
 暗に自分も連れていけばよかったのに、と言っているように聞こえる。
 普段ならそれでもいい。でも今はダメだ。
 さすがに袋の中身を確認されたりはしないだろうが、僕はわずかに身を引く。
 母がタブレットに目を落としたのを確認して、一階の廊下を通り、階段へ向かった。
 二階へ上がる途中で、外から子どもたちの声が聞こえた。その声に、僕は立ち止まってしまう。階段には、少し背伸びをすれば届く、小窓があった。小窓から覗くと、外では、子どもたちが遊んでいる。中学生らしき女の子が一人と、小学五六年生のように見える男女が一組。近所に住んでる兄弟だった。確か三人兄弟と言っていたか。一番上が姉で、あとは弟と妹が一人ずつだった気がする。あれがその兄弟なのかどうかはわからないが、距離の近い感じや、顔の雰囲気など、そうじゃないかという気がした。兄弟仲が良いのがわかる。
 しばらく眺めて、退屈してきた。このまま見続けていても何も起こらないとわかっていたから、僕は部屋へ行った。
 部屋には右腕がそのままあった。ただし、放置してあったわけじゃない。僕は右腕のためにクッションを用意してあった。ふかふかのクッションである。焦げ茶色で、右腕の白い肌によく映えていた。
 僕は一瞬、そこで戸惑った。服を着せるということは、その白い肌をも、同時に覆い隠してしまうことになる。それは僕の本望なのだろうか。僕は宝物である右腕を着飾りたい一方で、何にも隠されていない、さらけ出された肌を楽しみたいという気持ちもあった。
 それに戸惑いを覚えてしまい、身動きが取れなくなる。手が汗ばんでくる。まだ部屋のストーブを点けてもいないのに。
 とにかく僕は、服の入った袋をソファに放って、クッションの上の右腕を眺めた。
 触ってみるとわかるが、右腕には血が通っている。血は、白い肌の下を通って、皮膚を透き通って、わずかに脈動しているのが見える。その一本一本の通い方も、血管の絡まり具合も、美しかった。
 僕は鉛筆を片手に、何度もクッションの上にある右腕を、スケッチした。そうしているとわかるが、右腕は生きている者の右腕なのである。少なくとも死んではいない。もし死んでいるとしたら、右腕はとうに冷たくなり、腐り果ててしまっているはずだ。
 僕ははたと気づく。そうか、じゃあ右腕をなくして、生きている人がいるのか。
 それはひどく残酷で、罪作りなことをしているように思えた。自分が矮小で、ちっぽけで、くだらない人間に思えた。
 そしてそれは、間違っていないはずだった。

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