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伊東静雄の詩に魅了された文人たち

 伊東静雄の詩には難解なものも多いが、その難解さの中に今なお人を引き付けてやまない何かを秘めている。その詩に魅了された文人は枚挙にいとまがないが、その内の幾人かを紹介し、伊東静雄の詩の魅力に迫ってみたい。

 まず挙げるのは、郷里諫早を代表する文人であり、〈言葉の風景画家〉と称された野呂邦暢である。伊東も野呂も諫早を題材にした優れた作品を数多く残しているが、伊東が大阪南河内の病院で結核のため逝去した昭和二十八年にはまだ野呂は諫早高校の二年生であり、両者に直接的な面識はない。しかし偶然ではあるが、野呂の高校時代の歴史の先生である内田健一氏は伊東の従弟であり、級友の一人は伊東の遠縁であったというから、目に見えない糸が二人をつないでいたようにも思われる。

 野呂が伊東を初めて知ったのは昭和三十三年の春だと、文学界に寄稿した「詩人の故郷」(昭和四十八年)に書いている。伊東が没して五年後のことだ。北海道の自衛隊時代に受け取った郷里の友人からの手紙の中に、偶々「曠野の歌」の数節が書き写してあったのだという。その年の夏、自衛隊を辞め帰郷した野呂は、諫早図書館で正式に伊東の詩集と対面し、その詩に改めて魅了されていく。
 そして昭和三十六年の夏には、野呂はかつて伊東の住まいがあった堺市の三国ケ丘近郊を尋ね歩き、その強烈な夏の光の中に諫早と共通する風物を感じ取って帰諫する。堺旅行から戻った野呂は、上等の洋紙で手製の詩集をこしらえ、憑かれたように詩作を始め、一晩に十四、五の詩が出来ることもあったと記している。しかしその詩集は三分の二ほど埋まったところで停止したまま、最後は焼き捨てられてしまった。
 詩人になろうとする情熱が早々と喪失してしまった理由を、わずか十数行という制約があっては胸にわだかまっている重苦しいものを到底外へ吐き出せないと感じたからだと自ら告白している。それ以後、野呂の興味の中心は散文に移り、その十三年後に『草のつるぎ』で芥川賞を受賞することになる。この記事に従うなら、野呂が文芸創作の道に踏み入るきっかけを作ったのは、まぎれもなく伊東静雄の詩ということになる。

 次は、三島由紀夫である。三島は昭和十九年に住吉中学校に伊東を尋ね、自身の『花ざかりの森』の序文を頼んでいるが、伊東に断られている。三島は伊東に対して愛憎相半ばする複雑な感情を持っていたようだ。
 三島は新潮から愛誦詩を一つ挙げて欲しいと依頼され、伊東の「燕」を選んでいるが、「伊東静雄の詩は、俺の心の中で、ひどくいらいらさせる美しさを保っている。あの人は愚かな人だった。生き延びた者の特権で言わせてもらうが、あの人は一個の小人物だった。それでいて飛切りの詩人だった。詩人という存在は何と厄介なのだろう。人生でちょっと出会っただけでも、あんな赤むけのした裸の魂が、それなりに世俗に揉まれながら、生きていたという感じが耐えがたい気がする。詩人などという人間がこの世にいなかったら、どんなに俺たちは、心を痛めることが少なくてすむだろう」と書いている。
 私は、こんなにも伊東を称賛した人を知らない。三島は自身の小説遺作四部作の『豊饒の海』の第一作を伊東の詩と同じ『春の雪』と題していることからも、その心酔ぶりが伺える。

 大江健三郎も、若くして伊東の詩に出会った一人である。大江は自選小説集にも選んだ『火をめぐらす鳥』の最初で、伊東の詩「鶯」の冒頭の「(私の魂)ということは言えない その証拠を私は君に語らう」の一節を示し、「若い時のめぐり合い以来、つねに透明な意味をあらわしてきたというのではないが、僕にとって大切なものだ」と記して、長い間この詩を理解していたと思い込んでいたが、「これまではどの解説者も、あの僕がもっとも大切に思う詩について冷淡であったのに、杉本秀太郎氏が懇切な読み解きをされているのに出くわしたのである。しかもそれは、少年時からの自分の思い込みを覆してしまう解釈なのであった」として、自分の解釈が間違っているのではないかと思うところから詩の読み解きが始まり、物語はプラットホームで起こる最終幕に繋がっていく。

 もう一人、遠藤周作や吉行淳之介らとともに〈第三の新人〉と呼ばれた芥川賞作家の庄野潤三を紹介したい。庄野は伊東の教え子の一人で、卒業後も最後まで伊東と親交があった人であり、「醒めていると言うことと、われに陶酔を与えよと言うこと、これはまるで反対のことでありながら伊東先生の場合は、それが別々のことにはならなかった」と評し、伊東から薫陶を受けた文学に関する考え方や出来事を『前途』という小説の中で書き記している。

 名だたる文人たちが、なぜこれほどまでに伊東の詩に魅了されるのか。
 その答えを見出すのは容易ではないが、その答えはやはり伊東の詩の中に秘められている。
 伊東の詩を読む前と読んだ後では、自分の中で何かが変わったような気がするのは私だけだろうか。魂が揺さぶられると言えば大げさなようにも思うが、自分を取り巻く空気が変化したような感覚がする。
 伊東静雄の詩に隠されている秘密を一つでも多く見つけ出すことを愉しみに、これからも伊東の詩を読み続けていきたいものと思っている。

              諫早文化第18号(令和5年4月)より

※表紙は諫早公園の中腹にある伊東静雄詩碑。詩碑には伊東静雄の詩観を表現する好個のものとして、『そんなに凝視めるな』から〈手にふるる野花はそれをつみ 花とみづからをささへつつ歩みを運べ〉が三好達治の筆で刻まれている。伊東静雄は昭和28年3月12日に逝去、詩碑はその翌年の昭和29年11月、詩人の上村肇氏ほか多くの方々のご尽力により郷里の諫早に建立された。

そんなに凝視めるな


                          伊東 静雄
そんなに凝視めるな わかい友
自然が与える暗示は
いかにそれが光耀にみちてゐようとも
凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささへつつ歩みを運べ
問ひはそのままに答えであり
耐える痛みもすでにひとつの睡眠だ
風がつたへる白い稜石の反射を わかい友
そんなに永く凝視めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

                  昭和12年「知性」12月号に掲載


在りし日の伊東静雄
2023年3月26日に開催された伊東静雄を偲ぶ菜の花忌①。生憎の雨模様で急遽会場をホテルに移しての開催となった。
2023年の菜の花忌②
市民らによる献花風景。菜の花忌は今年で59回目、諫早市中学生・高校生文芸コンクール(詩部門)で最優秀となった諫早高校付属中学校2年の富浦花芯さんと希望が丘高等特別支援学校1年の黒岩千夏さんの詩の朗読、伊東静雄の詩の朗読や諫早中学校生徒による合唱など参加者それぞれ伊東静雄の詩業を偲んだ。

引き続き第33回伊東静雄賞贈呈式。今年は甲乙つけ難いとの選考結果によって奨励賞2編が受賞となった。壇上は奨励賞『ショートケーキ』の表彰を受ける川島洋さん。

第33回伊東静雄賞奨励賞作品

ショートケーキ

                      川島 洋
給料までの日数をかぞえながら
毎日を送っていると
一年はさながら
十二の目盛りがついた
みじかい定規のようだ
去年の定規と それはよく似ていて
おなじ定規が古びただけにもみえる

クリスマスケーキは贅沢だから
ショートケーキを三個
その小さな紙袋を
膝に乗せて腰掛けている
バスは 停留所の名を
目盛りのように告げながら
次々と通過していく

市街地をぬけて街道に出ると
夜が黒々とふくれている
降りたことのない停留所みたいに
やりすごしてしまったことが
いくつもあった気がする
(きっとそのことを言われたので
 昨夜はいさかいになったのだ)

もう一度 定規の目盛りに
目をこらしてみよう と思う
小さくても たしかに刻まれた
たくさんの目盛りが
今年の定規にだって
あったはずだ と

バスを降りて ふと見上げる夜空
オリオン座の その三つ星……あっ
夜の底で 思わず声をだした
しまった クリスマスに
小さなろうそく三本
入れてもらうのを忘れた

もう一つの伊東静雄賞奨励賞『産痛』の有門萌子さんの表彰式風景。

第33回伊東静雄賞奨励賞作品

  産  痛

                          有門 萌子
あまりの痛みに息を忘れていると
「あかちゃんに酸素を送るように」
といわれ、むりやり口をあけて
吸い込んでは吐く
おどろくほど丸くふくらんだ腹から
あなたが出てこようとしている
せまい産道に頭蓋をねじ込み
あなたが世界をひらこうとしている

この自然の意志が痛い
あなたが外に出ようとする力が
わたしが送り出そうとする力が
痛みと時間が外にひらかれていく
わたしの意志ではどうにもならなくて
ただひたすら呼吸するしかない
わたしが痛いとき きっとあなたも痛い
あなたが痛いとき きっとわたしも痛い
それはだぶん今だけじゃなくて
これから先も

この痛みに名前をつけないでほしい
罪も罰も付け加えないでほしい
ほかの誰も入ってはこれない
この痛みは ただの痛み
いのちの痛み それだけでいい
ひとつのいのちが ひとつのいのちと
触れあうために伸ばされたやわらかな灯
つながっていくあたらしい道
この痛みの先にひらかれたところで
わたしはわたしに出会い
あなたはあなたに出会う

痛みは痛みのままとして
息を吐いてそして吸って
出会えたわたしたちは
まぶしい世界に喉をふるわせ
声をあげて泣く

 

 《 野呂邦暢が最初に出会った伊東静雄の詩 》

『曠野の歌』 

                         伊東 静雄

わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ!汝が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時の木の実熟るる
隠れたる場所を過ぎ
われの播種く花のしるし
近づく日わが屍骸を曳かむ馬を
この道標はいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝が白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!

                ※詩集「わがひとに与ふる哀歌」より


《 三島由紀夫が一番の愛唱詩として挙げた伊東静雄の詩 》

                            伊東 静雄

門の外の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽
燕ぞ鳴く
単調にして するどく 翳なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く
汝 遠くモルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる
彼方の空より 来りしもの
翼さだまらず 小足ふるひ
汝がしき鳴くを 仰ぎきけば
あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と
羽うちたたきし 繁き海波を 物語らず
わが門の ひかりまぶしき 高きところに 在りて
そはただ 単調に するどく 翳なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く

                      ※詩集『夏花』より


《 三島由紀夫の『豊饒の海』第一作『春の雪』と同名の伊東静雄の詩 》

春 の 雪

                            伊東 静雄

みささぎにふるはるの雪
枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく声のけさはきこえず
まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春来むとゆきふるあした

                  ※詩集『春のいそぎ』より


《 大江健三郎の小説「火をめぐらす鳥」で主題となった詩 》

鶯(一老人の詩)

                            伊東 静雄


(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁に住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴き声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学校に入るために
市に行き
山の家は見捨てられた
それからずつと――半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再会した
私はなほも覚えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思ひ出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだらう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

               ※『わがひとに与ふる哀歌』より

※別稿で《伊東静雄詩集『わがひとに与ふる哀歌』に詠われた愛の讃歌と青春の蹉跌》を掲載していますので、よろしければそちらもご一読ください。詩集で詠われた「わがひと」とは誰であったかを考察しています。


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