見出し画像

死は二人称

この言葉は養老孟司さんという方が言っていた考え方だ。
昨日は3月11日で東日本大震災があった日。
私は当時神奈川に住んでいたため、被害はなかった。
実際に被害に遭われた方の心を理解することなど、到底できない。
それほど大きな出来事だったと思う。
私にとっての近しい人は被害がなかったため、ニュースでしか見てない私にとっての東日本大震災での犠牲者の数は「何万人」でしかない。
いわゆる三人称で知らない誰かが犠牲に遭われた。
どうしても、こう思うしかない。
しかし、実際に被害に遭われた方の家族や近しい人は「何万人」ではなく、「この人」が犠牲に遭ったという二人称で捉えているだろう。

また自分自身が死んでも、それには気がつかない。
つまり死というのは一人称でも三人称でもなく、二人称だ。

私の父は、東日本大震災の約2ヶ月前に急に亡くなった。
だから私にとって、三人称だった東日本大震災より、二人称だった自分の父の死の方が脳裏には圧倒的に残ってしまっているのだ。
毎年3月11日になると、私が思い出すのは、その2ヶ月前にあった父の死だ。
あの2ヶ月前に私はとんでもなく悲しんでいたな、とか、東日本大震災から13年と同じく、父の死から13年なのか、といつも思う。

毎日どんな理由であれ人は亡くなるから、それに思いを馳せていたら心がもたないから、そういう脳のプログラムになっているのかはわからないが、
死を感じるのは二人称だけだという言葉がとても腑に落ちた。

私自身、父が亡くなってから死について考えたり、どう折り合いをつけるかを考えたりしてきた。
時間が解決してくれるのかと言えば、半分正解、半分違うような気もする。

ただ、失ったものだけに囚われず、今自分が持っている大切なものに目を向けるのを忘れないことは大切にしようと自分に言い聞かせつつ、
墓参りに行った時や、たまーに当時を思い出して涙を流せば良いのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?