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多様性を盾にとって自分と向き合わない

多様性という言葉は最近、ますます注目されている。しかし、その意味や重要性について議論が絶えない。多様性は、文化や人種、性別、思想など、さまざまな要素を含んでいる。これらの要素が組み合わさることで、社会や組織、個人にさまざまな影響を与える。

一部の人々は、多様性を肯定的な要素として捉えている。彼らは、異なるバックグラウンドや視点を持つことで、新しいアイデアや解決策が生まれる可能性が高まると主張している。また、多様性は公正で包括的な社会を構築するための重要な要素であり、誰もが平等に尊重されるべきだと考えている。

一方で、他の人々は多様性に対して懐疑的な立場を取っている。彼らは、異なるバックグラウンドや価値観が衝突し、対立を生む可能性があると懸念している。また、一部の人々は多様性を利用して特定のグループが優位に立つことを恐れており、バランスを保つことの難しさを指摘している。

こうした議論からも分かるように、多様性は単純な問題ではない。それは常に複雑であり、解答が一つに定まることはない。答えが出ないのだ。

多様性は、その本質からして複雑であり、物理的なものではなく、概念的なものであるため、
簡単に良し悪しを判断することはできない。というより見方によって答えが変わるものだ。それは社会や組織、個人の力を引き出す一方で、調和を乱すこともある。

多様性については、ネットでも度々議論されているが、答えが出ずに終わる。
多様性のもとに多様性を否定している、という言葉があったが、言い得て妙だ。
結局逆を取りにいくだけだ。多様性という言葉を盾にとって、既存の概念を変えようとし、変わったら飽きてまた多様性を盾に取り闘い始める。
多様性戦争と名付けよう。

多様性の議論に答えを出そうとすることは、
洗濯した服を外で干して、外気に触れたからまた洗濯する、みたいに無駄なことだと思っている。
そんなことをしているより、有限な時間を自分のために使う方が正しいのではないか。

と、多様性について話してしまった自分に言いたい。

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