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2023年 夏の放浪 その4

前回はこちら


雲仙地獄の殉教碑

 宣教師がやってきた当初、煽られて、寺社仏閣を壊し、火をつけていったグループもある。天草の港で出会った猫おばちゃんの言葉じゃないけれど、「かわいそうなキリシタン」みたいな印象を持っているとピンとこないかもしれない。ただし、扇動者によって仏塔仏像を破壊したり、寺に火を放った背景に、時代のこともあるはず、戦国時代です。中途半端な攻撃じゃ、今度は自分の命がなくなる可能性があるなら極端な行動をするだろうし、破壊されきった場所でならどんな権利も無効化されるなら、やりきったほうがお得なはず。
 先に港の猫おばちゃんへの反論。彼女のキリシタン観の誤りを指摘する。ひとつは、天草・島原の一揆に参加した人らをキリシタンだと思っていること。もうひとつは、一揆勢と潜伏キリシタンを同一視していること。それから、キリシタンを「ヨーロッパの肩を持っている人たち」として理解していること。

ちゃんぽん

 さて歴史の整理に話を戻し、島原の乱の前夜をみよう。ヨーロッパの肩を持つ領主が、宣教師を優遇した話だ。

 いまの長崎市あたりを収めていた領主大村氏は、南蛮貿易によって潤う町の要所を、宣教師に明け渡した。貸与した。そうしたら、富を生み出している主体が領主ではないという形式になるから、隣接する領主(諫早あたりの龍造寺氏)に横取りを企てられる危険性が低くなる。だってそんなことすれば、ヨーロッパに宣戦布告するようなもんになっちゃうからね。
 ただ、宣教者たちの狙いが植民地化にあることは時折本人らによって明言もされ、そうすりゃ役所的に、さすがになにもしないわけにはいかない。秀吉は伴天連追放令を出す。っていっても、そんなにキツいものではない。実際的には貿易は続く。キリシタンたちの生活も続く。先述の「文化祭」や「クリスマスパレード」のような溶け込み方もあれば、集落の男たちが大きな船に乗り、村の生計が大人数での遠洋漁業であるため、いろんな人がいることは村人みんな重々わかって受け止めているという日常を生きる人たちもある。
  
 けれどヨーロッパ人のビジネスが存在感を高めるにつれ、緊張も強くなり、締めつけは厳しくなる。領主同士の贈賄事件が発覚したとき、両者ともにキリシタンであることが判明し、その事件自体にはキリスト教は無関係だったものの、これが伴天連追放令の厳命へとつながっていったという話もある。「ほら! なんかよくわかんないけど、やっぱキリスト教ってよくないじゃんね!」締めつけは厳しくなり、弾圧の時代がはじまる。キリシタンに信仰を捨てさせるための拷問が激しくなっていく。たとえば雲仙。湧いている湯気や熱湯に体を沈めればすぐに死ぬので、縛って座らせたうえで、ひしゃくで湯を、死ぬまでかける。何度も熱湯につきおとし、ひきあげて、死ぬまでそれを繰り返す……
 このような残虐な拷問を課したことで知られる藩主・松倉重政も、藩主になりたてのころは、キリシタンに寛大な面も示していた。政治的な立場を危うくしないがために、はっきりとした態度をとるようになっていったのだろう。
 
 不漁不作や飢饉に苦しみ、このままじゃ生きていけないと悩んでいるときに、バテレンの神に祈ったら解消されたんで信仰をはじめたケースも多い。まあその後、為政者の態度が豹変したために、やはり家族が死なないために棄教を選ぶわけだ。ところが、松倉が棄教を迫る時代は、同時に飢饉の時代でもあったし、重税の時代でもあった。松倉は税の取り立てもひどい。払わなきゃ、かごに入れて水につけられる。沈められたり引き上げられたりが繰り返される。このときに、「以前の苦しみを救ってくれたバテレンの神」にたいして、「棄ててしまってごめんなさい」と強烈な悔悟を感じることは想像に難くない。

おにぎり弁当


◎そして一揆へ
 実際のところなにが起きたのかはわからない。いろいろなことが同時多発的に起きたとしかいえない。キリシタンに立ち返る(再び信教しはじめる)というのは、政府側とは別の立場であることを示す態度でもある。千年王国の思想もおこっていたらしい。「審判の日がやってきて、そのときに信じている人は救われて、そうでないものは、世界と一緒に滅ぶ。救われた人々だけの世界が千年続く。(だからいまのうちに信者になりましょう)」という、あれである。また一説によるとこの時代、将軍が死んだ、だかから世の中が一時的にニュートラルになり、これまで中央政府が命じていたルールは無効化されるとの気風が起こったという話もある。将軍の死の噂は流れたが事実無根である。
「飢饉と重税に苦しむ農民たちが一揆を行う」だけなら、キリスト教への立ち返りを拒否する人を殺して、切断した首を刺した棒を旗にして行進しなくってもいい。けど、それがあった。だからキリシタン一揆の発端は、たしかにキリスト教の運動だったと思われる。
 しかし一揆の発生後に巻き込まれた住民はキリシタンとは限らない。一揆勢と鎮圧勢、どちらの肩を持てば、自分が、家族が、村が、滅ばずにすむのかを判断した人々である。だから結局、一揆勢=キリシタンではないし、鎮圧勢=日本宗ではない。戦局がかわるたびに「寝返る」人は多くいる。まったく珍しくない。

※ キリシタン軍との戦いの中で、鎮圧軍側の資料には「日本宗」という言葉がでてくる。キリシタンのカウンターとして、神道も仏教もくわえこんだ天道思想がまるごとパッケージされている言葉です。
 



スーパーの中華

 
  一揆とは、遠く江戸にある幕府に意見を聞いてもらうためのある種の「挙手」である。領主側も、強権的に支配をしているのではないから、農民たちとある種対等にわたりあうし、平時であっても常に緊張感はある。ただし幕府側の人々はこの一揆を、ただの「百姓一揆」とみなしていた。まあ、確かに参加者はほとんど農民の身分だろうけども戦国のノウハウがまだリアルに続いている時代だ。武力に訴える方法を熟知している人も多い。戦の経験者がいた。

 幕府や領主主導で組織される「鎮圧軍」の内訳をみると、こっちもほとんどがその地域に暮らしている農民たちである。つまり、村単位で戦局にあわせ寝返る農民たち同士の戦争、というのが、ひとたびはじまった戦いの実態を想像するときの基盤になる。かわいそうなキリシタンVS幕府の武士、では、まったく、ない。戦場では、強硬的キリシタンに半ば強制的に指示されている農民たちVS役人に半ば強制的に指示されている農民たち、の戦いが行われる。
 ちなみに、すべてのキリシタンが一揆に参加したわけではない。戦いに加わらなかったキリシタンたちもいる。たとえば天草の南半分はほとんど参加していない。

 さて一揆は島原、天草ともに、ほぼ同時多発的に発生しているが、おおきな流れをみれば、天草を海沿いに南下していくように動いていった。富岡城でヘトヘトに敗れた一揆軍は、海を渡って島原にいく。島原半島の一揆勢と、島原南端の原城で合流し、籠城する。原城は、公民館や地区センター、有事の避難所としての役割も持っていた。ここでの戦いは熾烈であった。3万人ともいわれる死者を出して原城が陥落する。ちなみに、鎮圧軍側には宮本武蔵なんかも参加しています。そのときすでに有名人だったはずなので、けっこうなワーキャーを受けたんじゃないだろうかと思う。

島原鉄道のHP『世界文化遺産「原城跡」までのアクセス』より転載
写真中央が原城跡

 原城および日野江城は幕府によって徹底的に破壊され、死者もろとも土に埋められる。
 なにせ原城だけで3万以上の死者である。一揆のニュースに触れたときに「なんだ、一地方で百姓が一揆をしてるのね」と状況の想定を見誤った幕府の起こした悲惨ともとれる。ともかく、このあと幕府は「鎖国」を決める。
 
 日野江城はキリシタン大名として知られた人の建てたものだけあって、城へと至る階段が仏塔でできている。破壊した寺社仏閣の建材を、字の掘られた面が見えるように組まれているのだ。横倒しになったそれらを踏むしかない道がつくられている。悪趣味だし、迫力がすごい。北野武が、「戦国時代なんてただのヤクザの世界」みたいなこと言ってるのは、おれもほんとうにそうだと思う。

こちらは、長崎県文化振興・世界遺産課の『原城』のページより転載
発掘現場にて見つかった、城もろとも埋められている人骨。骨には刀傷もある。ロザリオも見つかっている。


  キリシタンであることが公になればすぐに処刑される時代のなかで、人にばれず、証拠も残さずに信仰を続けていった結果、本来のキリスト教とはまったく異なる、独自の宗教が練りあがっていった……
 というのが、いわゆる「カクレキリシタン」の信仰である、と思っていたんですが、とも限らないというのをこの旅で知りました。一揆より昔にすでにヨーロッパのキリスト教とは別の形態を得た独自の信仰もあった。キリスト教の伝来直後に、神道・仏教・稲荷や七福神などと滑らかに混ざり合って、それがそのまま伝わっていった結果、いま表面をみると「カクレ」の信仰っぽく見える、という宗教がある。

天草市 観光文化部の『崎津集落』のページから転載
禁教時代のあと、当地の庄屋を教会につくりかえた。それまで「絵踏み」が行われていたまさにその場所に祭壇がつくられている。畳敷きの教会である。


 天草の崎津集落は、一揆に加わらなかったエリアでもある。(そういう人も数人いたでしょうけど。近所の大津には天草四郎がきたとかいう話もありますし。)しかし一揆後の弾圧はほかの地域と同様に行われます。といっても、大勢で遠洋に漁に出る暮らしのなかでは隠し切れないし、けれども誰もがそのような暮らしに加わっているので密告もされない。ただ、クリスマスに牛を食ったのがまずかった!
「さすがにそれはちょっと」という話になり、その噂が運悪く地域の役人の耳に届く。そうなりゃ役人として仕事をしなけりゃならないから、「実はキリシタンやってるってやつ、信教に使ってるグッズがあったら出しなさい。正直に出しなさい。」と命じるのだが、あらためて調べてみると想定をはるかに超えるキリシタンの存在が発覚する。そうなってくると、まずい。実はこんなにキリシタンがいました、という話が大々的に表になると、役人としては非常にまずい。なぜなら毎年「キリシタン対策」としてやっている「絵踏み」の意味がまったくないと白状することになる。そうなると、幕府に怒られる。だから、「日本宗の解釈が独特すぎる人たちがいるようですね。いけません。牛を殺して食うようなことはだめですよ」との公式発表に話は落ち着く。

 このときに提出のされた信教グッズが、いわゆるカクレキリシタンの実態を後世のわれわれに伝えてくれるわけです。まあ、崎津に限った話をしちゃってますけど、具体的なほうが話はまずは親しみやすいのでね。崎津では、禁教時代に庄屋だったところが、あとになって教会につくりかえられました。世にも珍しい畳敷きの教会である。祭壇は、庄屋時代に絵踏みが行われていたまさにその位置につくられている。
 
 カクレキリシタンはおもにマリア信仰である。これを遠藤周作は、「生きるため毎年絵踏みをしなければならない苦しみを背負った人々は、殉教を選ばない卑怯を厳しい父に断罪される道ではなく、母の慈愛により許され、なぐさめられる道を選んだのだ」との指摘でくるんでいる。それはそうかもしれないと納得しながら、ラテン系の人々が圧倒的にマリア信仰であることを思い出す。あれはどうしてなんだろう。



3.感じたこと、気づいたこと



今村刑場跡へと向かう坂をのぼりきったら雲仙がみえた



 津久井やまゆり園の植松聖のことをよく考える。そうなってしまったおおきな原因のひとつは、ある内部告発ビデオを見たからで、これは関係者に見せてもらったもので、世の中に出ていないし、だから私も多くを語るわけにはいかない。端的にいうと、事件前のやまゆり園の実情をとらえた映像である。植松の行いとは関係なく、そもそも、「内部告発」をされるような状況だった、とだけ言っておく。
 
 入職当初の植松が「いい職員」だったことはすでに報じられている。声や合図で明確な意思表明のできない利用者のささいな変化によく気がついて、すぐに救急車を呼んだら脳出血が判明し、利用者はよいタイミングで治療を受けることができた。というような出来事は、職場の日誌に書き込まれているのだ。そのあとで彼は、「どうせ障碍者なんだから、救急車なんて呼んでオオゴトにするんじゃないよバカ、ほっとけよ、気づくなよ」と上司から叱責を受ける。

 自傷行為を繰り返す利用者たちの、その行為の原因を探ることはせず、車椅子にベルトで体をくくりつけ、手にはぶ厚いミットをかぶせ、ミットをかぶさせられた手では指を使った動作ができないから、鉄の重い引き戸の部屋に入れてしまえば出入りできないけれど施設としては「監禁なんてしてません。だって扉は施錠してない。だから問題はない」と言い逃れができる。
 相次ぐ自己否定のなかで、「社会のお荷物、役立たず」たちの世話をする自分は、彼らよりなお劣った存在であると芯から感じるようになった植松は、そんな「役立たず」たちを処分すれば、自分は社会の役に立つ存在になれる、一発逆転できる、という発想に辿り着き、すがりつき、事件が発生する。事件を発生させたことで、本人の予想をはずれ、「社会のお荷物」になった彼は、まさに彼自身の道理にしたがうような帰結をむかえる。彼を死刑にした、ということは、植松の論理に同調し、加担した、という話でしかない。
 就活生やあるいは友達候補者を「不採用」にするときに、「あなたにはもっとふさわしい場所があるよ」と穏やかに笑いかけながら人を裁いているわれわれの生き方に平等性はない。「倫理性をまとっていると周囲にみせつけること」をする人と、しない人がいるが、いずれにせよわれわれは、基本的にどこか反倫理的で、非倫理的な存在である。だからこそ、突き詰めて考えれば考えるほど欺瞞の匂いが濃密になる。
 
 植松が繰り返した「役立たず」という言葉に含まれる「役」の意味とは、その過激な発想が芽生えはじめたころには、便益の話ではなかったんじゃないか。利用者が、誰からも愛されていない存在にみえた。施設職員からも大切にされず、家族の面会もなく、虐待され、そのストレスで叫んだり自傷するだけで毎日の時間を過ごしている。こんなにつらく扱われている人がいることを正当化する理屈を見つけないと、納得がいかない。そのあとで、その「感じ」に輪郭を与えるべく、ほかの要素が縫い付けられていく。

 ずいぶん感傷的な言葉遣いでくるんでしまっているが、本人の自覚のなかではもっと嗜虐的なロジックである可能性もじゅうぶんに高い。彼を正当化したり、英雄視するつもりはないが、植松は良くも悪くも、特別な人間ではなく、わたしやあなたと同じ、ただの人間であったというところに立っていたい。
 

 島原の話だ。キリシタン処刑の現場でもあった今村刑場跡は、幼稚園のすぐ裏にあった。
 地面のゆだる島原の道を、水の中を歩くように進む。右手に寺の墓、左手に十字架のある建物をみながら、ほんの少しの丘を登って、登りきったら正面にみえる雲仙はやさしい。存在感はあるのに、威圧感や圧迫感がない。そういう意味では月に似ている。しばらく道に座って休むが、止まっているほうが汗がだくだく出てくる。頭の中で、宮沢賢治が詩をよみあげる。「だめでせう。とまりませんな、がぶがぶ湧いてゐるですから。」
 足を懸命にあげ、坂をさらにのぼっていくと、次第に久しぶりに、人の声がきこえてきた。きゃっきゃと子供たちが遊びまわる幼稚園のプールの柵のすぐ隣が刑場跡で、汗だくの成人男性がひとりでやってくると、妙な勘ぐりをされるんじゃないのかと緊張する。
 刑場跡はほんのちょっとの空間で、草木がおいしげっていてるばかり、おおきな石がごろんとあって、それだけの場所。知らなかったら、ただの空き地にしか見えないだろう。
 

今村刑場跡(左奥に幼稚園が見えてる)

 空はのっぺりとしており、手を伸ばしてあの青い色に触れたら、車のボンネットみたいな熱なんだろうな。目玉焼きつくれそう。静かに全身を愛撫する島原の空気は、好きな人とこわごわと、はじめて手をつなぐ感触である。あるいは私を抱きしめている透明で巨大なヘビが、この獲物を絞め殺すかどうか、慎重に悩んでいる想像も可能である。

 刑場跡に立ち、ぼんやり立ち尽くし、思いを馳せ、それから乗った雲仙にむかうバスのなかで、今日がやまゆり園の事件発生日だと気付いた。くだらない偶然だが、「植松」というバス停がある。

 宗教と信仰は違う。信仰は、つまるところ、愛されたい。嫌われたくない。見放されたくない。好きになって欲しいし、ずっとそうであってほしい。そういう願いの一形態であるのかもしれない。そんな風にも思う。バスが涼しくて、少し眠った。
 

なんか天草の郷土料理の定食



 諫早のおまつりは、過去の大水害に捧げられたモニュメンタルなものだった。昭和三十二年だから1957年か。7月の25日から26日にかけて降った大雨で、一夜にして500名以上が被害をこうむった。
 知らずに2023年7月25日の諫早に降りたった僕だった。その偶然を楽しんで、どんなお祭りがはじまるのか期待していた。


おおにぎわい

 祭りの中心は川である。河川敷に、なんと20000本ものローソクが立てられる。そして暗くなると花火があがる。その数も2000発! しかも、ドーン、ドーン、と区切って放たれるのでなくて、打ち上げ開始からさっそく連発に次ぐ連発。ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドと上がりまくるから、爆発したあとの音の残響もバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラとけたたましい。

河川敷のろうそくたち

  
 日中は人も車もほとんど見なかった諫早に、たくさんの人が集まって、商店街の人もテキヤの人も大忙しである。乗じて募金活動をする少年野球チームや、合唱の発表の場にしちゃうコーラスサークルがある。夏の楽しい思い出ですし、出会いや再会の場でもあろうし、経済的にも、たくさんのお金がまわる日でもある。水害のことを意識している人もそうでない人も混ざってその場を楽しんで、ローソクへの着火がはじまれば、「きれーい!」ときらきらはしゃぐ子供、そのそばに、しんみりしみじみした顔つきで、あたりを眺める老夫婦。
 
・単純に視覚的にきれいである。インパクトもある。規模もでかい。

・のみならず、高度な象徴性がある(後述)

・とはいえ楽しみ方を選ばない。楽しむ人も選ばない。誰でも、お好きなように。

・実際に体験するということの価値が高い。

・「この場所でこの日にやる」という必然性も確かで

・経済的な効果があり、

・近辺の生活の一部になっている
 
 現代アートが理想とする指標の大半に満点以上を叩きだしているようにも思われ、現代アートのニセモノ加減をつくづく感じた。美術館やギャラリーにわざわざいくやつだけが集まって、せいぜい4、5メートルの天井の下、真っ白で直線的な部屋のなかでああだこうだ楽しんでいる現代アートの卑小さたるや! 

 そしてこうも思う。抽象化された都会には、空間ばかりがあって場所がないから、だからこそ、そのかわりに現代アートが呼び込まれるのかもしれない。


わーすげえ

 このお祭りで一番の発見は、次のことだ。
 20000本ものローソクを並べ、花火を2000発打ち上げる。そんなことができるのは、雨の降っていない日に限るのだ。すなわち、このお祭りが開催されることはそのまま、
 
「今日は、雨が降ってないんだよ。あの年の7月25日と違って、今日は雨が降らなかったんだよ」
 
の表明なのである。大雨の存在感を照らす炎である。

 開始直後から連発される花火の騒音は、炸裂のドーンよりも、その後のバラバラバラのほうが目立つし、それがいつまでも止まない。目を閉じたらわかる。豪雨に見舞われているときの音環境なのだ。打ちあがる炎を見上げながら、耳をおおう大雨のサウンドスケープに、いつしか目は、同時に豪雨を見上げている。
 


死ぬまでにこんなお刺身をあと何度食べられるか・・・

 

 天草でも、たまたま花火大会に行き当たった。火薬玉がはじけて鳴ると、遅れて残響がやってきて、そっちのほうが長い時間鳴っている。花火によって、空を鳴らしている。花火がはじけて光がこぼれると、そのたびに、さっき消えた花火の煙がおもしろいかたちにほどけていく様子が覗く。その束の間にも、煙は少し形を変える。
 

天草の花火 「ハイヤ祭り」


 島原でのはじめての朝、商店街を散歩しているときになにかが気になって立ち止まった。誰もいない路地に立ち尽くし、ぐるりを見渡して、この感じはなんだろうかと推理する。気持ちいいのだ。これはなんだろう。昨夜、島原に到着したときにも感じた心地よさが、より一層はっきり伝わってくる。自分自身が、この場所の一部分として取り込まれている気がする。
 かろうじて言葉になったのは、鳥とセミと、水の流れる音に取り囲まれているうれしさだ。島原は町の中にたくさんの水が流れていて、しかもとても清澄である。これがちょろちょろと、くすぐるような音をたてている。生き物は位置を変えるし、地下の小さな流れの音がやっとこちらに届く条件は厳しく、少し動くだけで、サウンドスケープは繊細に、複雑に変化する。柔和で有機的なノイズで充満している。空間に充満する大量のさやめきに、体の表面のすべてが常にじゃれつかれている。
 
 ラーメンを食べるのが苦手で、ラーメンのおいしさがわからない。何を食べているのかよくわからなくて、ラーメンの味がなんなのかつかまえられない。ただし、たとえば「麺を食べるんだ」みたいにして、とりあえず軸になるものを決めてしまえば楽しんで食べられるようになるんだろう予感はある。真っ白な紙を渡されて「自由に描け」よりも、一本の地平線のひかれた紙を渡されたほうが落書きをしやすいのと同じで、注意をむけるべきところがひとまず定まっていれば、ほかのものも感じ取りやすくなる。
 この旅を通して豊かになったことのひとつが、自分にとってのスケッチの意味である。それまでは、目の前のものをじっくり見つめて、そいつとより親しくなるためのスケッチしかしていなかったけれど、これにもう一つ楽しみ方が加わった。いまの自分を取り囲んでいる音に耳を澄ますために、ひとまず目と手を視覚に集中させる。そういうスケッチができるようになった。

 目を使ってじっくり観察し描写し、それに集中しているときに、張りきっている気持ちのあいだをすり抜けて、たくさんの音が届いてきていることをつかまえられるようになった。それが聞こえるようになった。目に集中しているから、届いた音を選んだり裁いたりすることはない。自分を取り囲む音や風や湿度や重さ軽さ、温度が、素直に体に触れてくる。こっちが目に集中しているのをいいことに、あいつらは度胸試しでもするように、いっとう無邪気な顔をして、次々と私に触れてくる。


天草・崎津集落の海

  
 食べ物はおいしいが、こざかしい調理をしない食べ物のおいしさは、東京で食べるものと質が違う。刺激的な味つけに慣れた舌には気づけない快適さがある。そう、快適さがあるのだ。島原駅前で、高校生の男の子同士が、店で売ってる飲み物について話をしていた。
「これ、飲みやすくておいしいよ。」
 驚いた。はじめから飲み物として売ってる液体に「飲みやすさ」の程度があるなんて思いもよらなかった。体との馴染み方に、どれほど無理な力がないかについての感度が、自分は非常に低い。暗にそう教えられたようだった。

 体にとって気持ちのよい飲食物には、温度やタイミングなど、調味料による味つけ以外のことも重要な要素で、それを男子高校生が売店の飲み物にも見つけ出しけらけら雑談する環境で食べたもの全部がおいしいのは、そりゃ当たり前の帰結でしょう。

 これは再三言及する島原の空気の肌触りとも通じている。「出汁と塩でしか味つけしてない」野菜を食べながら、「このニンジンすごいやさしいにおいするなあ ニンジンが寝た後の布団のにおいがするなあ」とか思いながらよく気をつけると、そのときに気にしている「におい」という要素以外、ニンジンの存在感がまったくない。自分のヨダレの味がわからないのと同じで、ニンジンの「におい」以外はもう、わたしの一部になっている。自分と対象の、その両方にまたがっているエリアが広くて深い。

 見ること、視覚に頼って観察することは、自分と対象とが別々に分かれているという発想を強化していく一方である。そればっかりやってちゃいけない。そればっかりやっていっちゃ、全然気持ちよくなれない。
 
 っていうような話を、島原の居酒屋で偶然居合わせたおっちゃんに打ち明けた。

「まあだから台風とか災害も多いからね、どうしようもないことはどうしようもないわけだし、その、野菜の味もそうだけどさ、自分の外のものへの礼儀っちゅうかね。なるべく気持ちよう付き合うやり方をいつのまにか自然に学んでる部分もあるかもね。泳ぐってそういうことだからね。乗り越えるとか戦うとかじゃなくて、流されるとか、一体化するというんでもなくてね、乗りこなすほうが楽しいよね。そういう部分はあるのかもね。」




(つづく)


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