swan song1


 日本初の近代戦艦として戦艦富士が就役したのは、明治三十年であった。
 其処から、日清・日露戦争を経て日本は海軍力を徐々に増強していき、世界に頭角を現しつつあった。
 しかし、日露戦争で勝利した日本の影には、常に英国が付き添っていた。英国は、ただ日英同盟を組んでいたから手助けをしたわけはない。大国は大国故にしたたかであった。日露戦争の黄海海戦に於いて、ロシア戦艦ツェザレヴィッチが三笠の砲撃の損傷の後にドイツに抑留された時、英国はその損害を調べていた。そこで分かった事実は、接近戦よりも長距離戦における強力な戦艦を造る必要性であった。
 そこで英国は秘密裏に強大な戦艦を設計した。それが、弩級戦艦「ドレッドノート」である。単一口径の主砲で統一された斉射に有利な大型戦艦の登場は、今までの海戦の形を覆し、世界に驚愕を与えた出来事であった。
 また、ドレッドノートと同時に、巡洋戦艦「インヴィシブル」も建造された。これは、戦艦並みの砲撃力と巡洋艦並みの速力を持つ世界最初の巡洋戦艦であった。これにより、今までその地位に居た装甲巡洋艦は軒並み旧式艦として取り扱われる事となる。結果、日本がやっとの思いで作り上げた戦艦薩摩型・河内型や装甲巡洋艦ら最新艦艇は瞬く間に旧式となってしまった。

 圧倒的な差を見せ付けられた日本は、英国の造船技術を学ぶ為に巡洋戦艦の発注を依頼した―――これが、「金剛型巡洋戦艦」が出来上がる切欠となる。
 沢山の軍人や民間関係者が英国に渡り、多岐に渡る指導を受けた。そうして、まず最初に英国にて「金剛」が建造された。その後、日本国内で「比叡」・「榛名」・「霧島」と続けて建造され、日本は巡洋戦艦を同時に四隻持ち、またそれらを建造する造船技術を得た。

 英国の刺激を受けたのか、世界の造船技術の発達は目覚しかった。各国は競い合うように研究し、建造していった。その為に、軍拡における予算はどんどんと跳ね上がり、国や国民を逼迫するまでになっていった。

 日本もまた然り。日本海軍は第一次世界大戦終結後に「八八艦隊」の整備を予算化した。八八艦隊とは艦齢八年以内の戦艦を八隻、巡洋戦艦を八隻建造する計画であり、試算するに日本の国家予算の三分の一にまで及ぶ壮大な計画であった。これは、アメリカのダニエルズ・プランも同じである。
 最早、各国の財政への影響は計り知れないものへとなっていった。そんな折、大正十年七月初め、アメリカからワシントン海軍軍縮会議への参加の要請連絡が来た。戦艦富士が就役してから、僅か二十四年の出来事であった。

 ワシントン海軍軍縮会議とは、各国の戦艦・空母等の各艦艇の排水量比率を決める事で、各国の海軍力の増強を抑制しようというものであった。また、主力艦の排水量や主砲インチを制限する事も盛り込まれていた。これには、第一次世界体制で戦勝国であるアメリカ・日本・イギリス・フランス・イタリアが参加した。
 財政に困難があった日本は、英国と米国の艦艇の保有数を抑えられるとして此れを批准した。三笠など旧型戦艦が保有数を理由に廃艦に追い込まれたが、陸奥を完成と位置づけた結果他国の戦艦保有を認める結果となった。

 その後、条約制限内で収まる戦艦を造ろうと新たな設計を模索するようになる。しかし、戦艦の新造は特段の理由がない限り認められておらず、自然と制限されていない巡洋艦などの補助艦艇の建造に注力していく事となる。
 結果、ワシントン軍縮条約上のそれらの穴を埋めるべく、昭和二年に補助艦艇の制限を求めたジュネーブ軍縮会議が行われたが結局決裂し、仕切りなおしとして昭和五年にロンドン軍縮会議が開催される事となった。巡洋艦や潜水艦などの補助艦艇の保有比率や合計排水量が決められる中、更なる戦艦・巡洋戦艦の削減が決められた。


☆☆☆
大昔に描いていたSSの名残。
比叡と浅間の擬人化BLだよ\(^o^)/

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