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「I Love You」ー 日本語にないフレーズ

日本語には「I love you」に相当する決まったフレーズが存在しない––。
 
高校生のとき、現代国語の先生が教室でそうつぶやきました。日本人と日本語の特性について説明したときのこと。もう50年も前の話です。
 
「こういうと、君らは『私はあなたを愛します』『私はあなたが好きです』ではないですか、と言う。そんな日本語があるだろうか。ヨーロッパの多くの言語や中国語にも『I love you』に相当する決まった表現がある。日本語にはない。なぜか?」


「死んでもいいわ」

カップル間で「ここぞ」という場面で主体と客体をはっきりさせて、自分の思いを「言い切る」フレーズが日本語にはないのだ、と先生は言うのです。
 
明治以来、小説や戯曲で「I love you」を登場人物にどう言わせるかは、作家の腕の見せどころだったと先生が16-17歳の生徒に向かって話します。
 
二葉亭四迷がロシア小説を翻訳するにときに登場人物(女性)に「死んでもいいわ」と言わせ、夏目漱石が「月がきれいですね」と弟子に示したと紹介します。
 
先生の話は続きます。
 
日本では状況が言葉使いを決めるので、主体も客体も文脈に溶けてしまい、やりとりがあいまいになってしまう。
 
「I love you」は動詞をはさんで『I』と『you』の一人称と二人称だけでできている。簡潔だ。そのため、言った本人には直ちに相手への責任が伴う。

「自我を主張するとはそういうことではないか」と先生がつけ加えました。

慧眼です。今、思い出しても「恐れ入れます」という感じになります。この先生に会えただけでも、良い高校に行ったと思います。

告白と宣言

日本では「I love you」は、「告白する」「打ち明ける」行為ではないでしょうか。これは英語では「confess(告白する)」に相当します

では、日本語以外では?

調べてみると、英語やフランス語、ドイツ語は、カップル間の愛は「declare(宣言する)」を用いることが多いらしい。英語の辞書をみると「declare one’s love」(愛を宣言する)と成句扱いになっています。
 
「愛」は告白するものでなく、宣言するもの、なのでしょうか。

で、今度は和英辞典で「告白」を調べてみました。「彼は彼女への愛を告白した」という例文を見つけました。「He declared his love for her.」となっており、この辞書を編んだ人は、私の先生と同じ見識を持っていることがわかります。『プログレッシブ和英中辞典』(小学館)です。

敬語を無視できない

「宣言する」行為の軸は自分にあり、相手にありません。他方、「告白」は、第三者がまわりにおらず密室性が高い環境で行われます。カトリック教会の「告解」(ざんげ)はこれに相当しそうです。「言った」「言わない」はその場の人限りです。他の人には伝わりません。
 
ところで、日本語の会話は、人間関係のありようを前提とすることが多いので、相手の年齢や身分を知らないと会話ができにくいものです。特に初対面では、敬語を無視しては会話がとても難しい。
 
社会経験(対面の経験)が乏しければ、内容を伝えるのと同時に、敬語を使うことにエネルギーが取られます。
 
高校の部活では、学年が違うだけで、先輩後輩の関係が生じ、言葉使いが違います。この国では、年齢や経歴、力関係から作られる「相手との距離」で言葉を選ぶことが子供の頃から養われるのですね。
 

「はい、そうです。でも…」

日本では、同調圧力を意識しながら、他人に忖度し、顔色を読むチカラがとても重要です。だけど、今後はどうでしょうか。人と人がまずオンラインで結びつき、個人が世界に直結する時代には、言葉によるコミュニケーションがますます重要になるでしょう。

「言わないと分からない」が前提となりそうです。

家庭や職場、研究室で、本当に率直なやりとりができているか気になります。

「はい、そうです」で始まっても、「でも…」と結論があいまいになりませんか。

「あいつはものの言い方を知らない」が若い芽を摘んでいないでしょうか。

外国人の日本語に寛容でしょうか。

日本語は、部活の「先輩」「後輩」に代表されるタテ社会では有効でしたが、フラットな世界ではどうも使い勝手がよくないのかもしれません。

世代間でコミュニケーションがうまく行かないとしたら、日本語がそれに加担しているかもしれません。新しい時代の新しい日本語が欲しいと感じます。                       (了)

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