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「映像の世紀」は誰のために。改訂

NHK「映像の世紀」シリーズの「映像の世紀 バタフライエフェクト」が放送中である。今までのシリーズよりさらに個別の人物や出来事に焦点を当てた短編集のような構成で、相変わらず眼福のある番組となっている。

二十数年前、中学生だった私は学校の歴史の授業中にシリーズ最初の「映像の世紀」を観させられた。NHKへのイメージが相撲中継と大河ドラマくらいだった当時の私にとって「放送局」というものへの新しい視座とともに、その内容からは歴史の授業というお勉強を越えた如何ともしがたい世界がこの世にはあるのだということを教えられた記憶がある。番組メインBGMである加古隆さんの「パリは燃えているか」は聴くだけで妙にシリアスな気持ちになってしまうほどである。

二十世紀を、映像が記録できた世紀と言い換え、第一次世界大戦の嘘、アメリカ資本主義の盛衰、独裁者を止められなかった世界、真実が消えた冷戦、若者たちの声、そして現在へと異様な切り口から「映像」をつないでいる本シリーズ。それら内容そのものや解釈については私などがとやかく言ったところで価値はないが、そもそも1世紀分の人類の大きな歴史を映像とナレーションだけで消化しようという試みの壮大さにまず頭が下がるのである。

たとえば私が上記の企画を「やってみろ」と誰かに言われたとして、その際に想像できる途方もない労力と胃がキリキリするほどの責任とそもそもの掴みどころの無さに茫然とするだろう。そして茫然としながら、しかし、なぜこんな番組をつくるのかと身も蓋もないことを思うだろう。ジャーナリズムに生きていない私ではなおのことそこに立ち戻ってしまうはずである。そうして立ち戻って考えてみたとして、面白いからか、意見したいからか、はたまた見たい人がいるからかなどと逡巡すれども、そのどれも私にはしっくりこないのである。

「映像の世紀」シリーズは歴史番組であることに変わりはない。ただ、その歴史はあまりに近く、目を背けたくなる。むしろ近いどころかその歴史はまだ終わっていないから思わず周囲を見渡したくなる。つまりは、ここで描かれる人類の歴史はまだ「歴史」とは呼べない、呼んではいけない「記録」だ。しかしてやはり「映像の世紀」を語ろうとすると「歴史」と「記録」の境目というひどくややこしい領域に首を突っ込まざるをえないのである。

その境目はもちろん一概には言えない。国や地域、そして個人によって異なってくる。ただし、例えば同じNHKで放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では鎌倉時代が描かれている。当時も権謀術数が交じり合い、時に凄惨な事件が起きた。しかし、今「鎌倉殿の13人」で描かれるそれらはエンターテイメントである。鎌倉時代は多くの人から見て、もはや歴史となっているからだ。「映像の世紀」は違う。描かれる内容は未だ私たちに影響を及ぼしていることばかりである。

話を戻すが、なぜこんな番組をつくるのか。シリーズをもう一度見直して感じたことがある。それはこの「記録」すら「歴史」になるということだ。抗い続けてもいつしか「歴史」になる。良い悪いではなく、その「記録」にいたはずの一人ひとり、善人もそうとは言い切れぬ人も、すべての人のパーソナリティが消え「○○時代の人類」として扱われる日が来る。そしていつしか「鎌倉殿の13人」の如く、まごうことなきエンターテイメントとして描かれる日も来るかもしれない。

誰かにとってはまだこんなに生々しいのに。誰かにとってはまだ全然得心していないのに。同時代を生きる者として無理を承知で抗いたいと考えたときに20世紀には映像があった。「映像の世紀」であった。

映像の持つ最大の強みはパーソナリティを残せるということだと思う。そこにたしかにいた人のひそめた眉や皺くちゃの笑顔、そして威勢はいいが怪しい声やカメラをただただ見つめる瞳。

歴史という距離感ではなく、被写体と視聴者の1対1という距離感。「映像の世紀」がつくられた理由は数百年後の人類にも「クローズアップ」で20世紀を見せるためである。

できるだけ、それでもなおできるだけ、自分たちを歴史なんかにしないために。

#テレビ #コラム #映像の世紀 #歴史  

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