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利尻満腹心中

 寒々とした冬の海は、夜のしずくが溶けているかのように暗く、それでいて荒涼で、眺めていると滅法気が滅入る。
 年の暮れ、僕は船上にいた。
 客船である。波に合わせてゆらゆらと揺れを感じている内に、気持ちが悪くなってきたので甲板に出て新鮮な外気を吸おうとし、立ち込める潮気に一層気分が悪くなっていた。
 懐から取り出した煙草に燐寸で火をつけて一服する。
 ふぅ、とため息まじりに紫煙を吐き出すと煙の向こうにゆらりと佇む旅の連れの姿が見えた。
「あらセンセイ、煙草をお吸いになるなんて珍しい。最近じゃめっきりそんな姿、お見かけしませんでしたのに」
 咎めるといった口調でもなく、単純に物珍しい光景に興味を惹かれたのか、連れは僕のそばに寄ってきた。
 旅の連れである彼女は僕の家に下宿している自称女学生だ。
 狐の化身であるかのごとくつり上がった目をした色白の女史である。二十歳と言われればそう見えるし、十五・六の少女のようにも見え、はたまた僕よりも年上であるかのように思われる時もある、不思議な女だ。
 自称女学生のわりに学校になぞ通っている姿を見かけたことがない天麩羅学生なので、僕は彼女のことを天麩羅さんと呼んでいる。
 天麩羅さんが隣にやってきたので、僕は吸っていた煙草をさっともみ消した。
「これは僕にとっての精神安定剤みたいなものでね。野花を混ぜ合わせた自家製のものさ、船酔いした時なんかに吸うと気分が落ち着くんだ」
「匂いからしてあじさい煙草ですわね」
「よくわかるな。まぁ、そんなようなものさ」
 長年かけて僕が作った煙草には微量ながら麻薬的効果がある、と僕は信じている。
 まぁ、素人の手管によるものだからその効用は保証はできないけれど。
「それにしても利尻島か」
 僕は船が往く先に見えてきた島の名を口に出す。
 忙しくもない年の暮れとはいえ、遠路はるばるやってくるにはいささか遠すぎる島だ。
 いつもの心中旅行の延長とはさすがに言えない。
「君が来たいと言わなければ一生来なかったろうぜ」
「まぁ、いいところですのに。利尻富士、一度は眺めておいて損はありませんわ」
「この天気じゃなぁ……」
 曇天甚だしい。今にも雨が降ってきそうで、利尻の山を眺めるのは無理そうだ。
 そもそも冬場のこの時期は観光客もまばらで、要するに観光時期ではないらしい。
 そんな時期にわざわざ島に出向くのはよほどの物好きか、それとも僕たちのように訳有って来島する者くらいであろう。その証拠に利尻島行きのこの船はほとんど貸し切り状態である。

「千夜に一度、利尻島の鬼刺岬で月光浴をするのが習いなのです。どうかセンセイ、私めを利尻島に連れて行ってはくださいませんか?」

 柄にもなくしおらしい態度で天麩羅さんがそう頼んできた為に、僕は少しばかり男気を見せようと彼女の願いを叶えることにしたのだが、よく考えると島に行きたいという動機がとんと妖しい。
 千夜に一夜の月光浴とはなんなのだろう。まるで妖仙の類のようではないか。
 しかし頼み込んでくる天麩羅さんの顔は真剣で、それでいてなにやら困っているかのようで、放っておくことも出来ず仕方ないと腹をくくった。
 それから列車を乗り継ぎなんとか稚内までたどり着き、一泊した後にようやく島行きの船に乗ることが出来き、僕は天麩羅さんと船に揺られている。
 その船が汽笛を鳴らした。
 見れば港が見えてきている。今の汽笛は島への到着を知らせる合図だったようだ。
「それにしても心中するにはうってつけの寂しそうな海だね」
 気づけば二本目の煙草を咥えていた僕は思わずつぶやいていた。
 冷たく暗い冬の海―――手と手をとって、僕と彼女は海底へと沈みゆく。
「悪くはないね」
 煙草の麻薬的効果なのか、幻覚と妄想の合間をゆらゆらとさまよっているうちに、船は港へと到着した。
 はたと気づくと、隣に居たはずの天麩羅さんの姿はない。
 吐き出した煙草のけむりのように、彼女は薄れ漂い消えてしまったとでも言うのであろうか。
 よくわからぬままに僕は煙草を吸い終え、島へ降り立つことにした。

 利尻島。
 そこに足を踏み入れた僕は、第一歩目から往く宛がなかった。
 というのも、僕自身にはこの島での目的というのは皆無である為に、暇つぶし以外にすることがないのである。
 天麩羅さんが目指している鬼刺岬というところへ、向かってみようとも思ったのだが、なにやら彼女の秘密を垣間見てしまうようで気が引ける。
 彼女が僕の前から姿を消したということは、彼女は一人で行きたいということなのだろうと僕は思う。
 ならば彼女の孤独を邪魔する訳にはいかぬ。
 こちらも一人、この島を歩いてみよう。
 なに、小さな島だ。
 歩いて一周するのだってそう難儀はしないだろうと高をくくって散策を始めたのであるが、歩き始めてしばし経ってようやく気づいた。
「一周などとても無理なのである」
 歩けど歩けど道が続いている。
 船が到着した港―――鴛泊港というのだが、そこを出発して島をぐるり一周し再び鴛泊港に戻ってくる。
 当初そんな道行きを想定していたのだが、そう簡単に一周出来るものではないことに、沓形港という港について気がついた。
 この島、なかなかに大きい気がする。
 沓形の町にて鴛泊に引き返そうか、それとも先を目指すべきか、僕は選択を迫られている。
 道端にしゃがみ込む僕。情けないやら疲れたやら。
「どうしたんだい、旦那。今に首でもくくりそうってな顔色だぜ」
 そう声をかけられ、顔を上げると僕を覗き込むようにして少年が立っていた。
 その少年は魔術師がかぶるような黒いシルクハットを目深にかぶっていて表情が伺えないけれど、背格好から見て小学生くらいだろう。
 白いシャツに黒い半ズボン。
 唐草模様の風呂敷を、マントのように首に巻き付けているのが実に子どもっぽい所作だ。
「ほらよ、旦那。そんな情けない顔してないでこれでもお飲みよ」
 黒帽子の少年が差し出してきたのは見たこともない飲み物だった。
 牛乳瓶のような硝子の入れ物に入った乳白色の飲み物、と表現すればそれは牛乳以外のなにものでもないように思われるだろうが、瓶には「ミルピス」なる文字が書かれている。
 紙の蓋を剥がして恐る恐る瓶に口をつけ、中の液体を口に含むと―――牛乳ではない。
 乳酸菌飲料の味がする。なんというか、味わったことがあるようなないような。
 別の乳酸菌飲料でこの味を例えてしまうと風情に欠ける、と思うところもあり。
 ただ一つ言えるのは、この飲み物、牛乳を飲むと必ず腹を下す僕であっても安心して飲める。そんな味がした。
「いや、びっくりだぜ旦那。得体のしれない子どもに渡された見たこともない飲み物をそう簡単に口にするんだもの」
「え? あ? そういえば、そうかもしれぬ」
 確かに怪しげな飲み物かもしれないが、ぐびりと二口目も飲んでしまう。
「だって飲んでいいからくれたのだろう?」
「そりゃそうだけど。旦那、それがなにか知ってるかい? この島でしか売ってないミルピスって飲み物なのだぜ」
 自慢気に言われてしまったが、そんなこと言われたったわーいと喜びの声を上げるような年頃でもない。
「知ってるかいと言われてもな、少年よ。無知蒙昧なるや我が骨頂、七生阿呆と決めておる僕が知っているはずもなかろうて。知っていることなんてわずかなことで、わかっていることなんてなにもないのさ」
「いい大人が胸を張って言うことかよ?」
「いい大人と決めつけてもらっては困るというもの。僕は駄目な大人で出来損ないの放蕩紳士なのだ」
「そりゃあ大層なこって。けれど駄目な大人だろうが俺にとっては恩ある方なんだよ、旦那は」
 恩というのはなんのことだろう。今しがたあったばかりの少年に恩も義理もないだろうに。
「旦那は俺の大切なあるじ様をこの島に連れ帰ってきてくれた方だ。本来なら山海の幸をずらり並べた酒席を設け、天女仙女が舞い踊る桃源郷のごとき宴で出迎えるのが筋ってもんだが、今の俺じゃあちょいと力不足でな。すまん」
 大きな黒帽子が揺らして頭を下げられたが、すまんのはこちらの方だ。とんだ人違いをしているのだから。
 僕にはあるじ様とやらに思い当たる節がない。
 然るに恩を感じることもない。
「それで帰りの船に乗る前に、玉手箱でもくれるのかい? 中を開けたら白い煙に飲まれてジジイになるのは御免こうむる」
「ははん、旦那は玉手箱を開ける度胸がおありかな」
 にししししっ、と嘲笑するような笑みを見せ、黒帽子の紳士はひらりと風呂敷マントをたなびかせた。
「旦那にゃ過ぎたる玉手箱より必要なもんを教えてやるよ。ついてきな」
「お……おう。そうさせてもらおうか」
 心もとない島巡りも、地元の少年に先導されるとなれば心配はいらぬ。
 弱りかけていた心がたちまち立ち直って、僕は歩みを再び始めた。
「苅薦の、乱れ出づ見ゆ、海人の釣船」
 などと風流ぶって口付さみたくなるくらいだ。
「そんな歌を浦島太郎も口付さんでたけどな、連れて行くのは竜宮城じゃあないんだな」
「それじゃあ爛柯山か? それとも妖精郷?」
「この島にある山は利尻富士の一つっきりだぜ、覚えておきな」
 覚えておこう、一つ賢くなったというわけだ。明日には忘れるだろうけれど。
「旦那を連れてきたかったのはここだよ」
 黒帽子の少年がくいと指差したのは、港町に佇む一軒の飲食店だった。

「利尻らーめん 味楽」

 そう看板に書かれている。
「らーめん屋があるのか……こんな最果ての島に」
 思わず目を丸くしてしまった。
 利尻の幸と言えばうに。
 うに丼やうに尽くしの定食を出すお店ならあるのだろうと踏んではいたが、まさからーめん屋があるとは予想していなかった。
 ちなみにだが、僕はうにが好きではない。
 海の悪いところが詰まった悪しき玉手箱に思えてならない。棘棘とした外殻の中に橙々色の身が詰まっているなんて、そもそも今世の生物として理に適っていない。
 外宇宙から飛来した暗黒生物だと言われた方がまだ信じられるくらいだ。そのような星辰の彼方からやってきた生物のはらわたを抉って食べるなんて僕には無理だ。
「旦那、心配せずともうには出てきやしませんぜ」
「おや、僕はうにについてなにか言及していたかな? 心の声を口にしてしまったのか」
「そりゃあもう。うにに両親でも殺されたのかってくらいのことを口にしてましたぜ」
「安心しろ、僕の両親は健在だ。それにうには人間なんていう下等生物を相手にはしないだろうよ」
 はぁ、と黒帽子の少年がため息交じりに頷いた。呆れられている、というのは僕にでもわかった。
「与太はその辺にして入りなよ。旦那の為にすでに注文は終えてお代も払ってる。あとは旦那が存分にらーめんを堪能してくれりゃ俺としては本望だ」
「我が身に覚えのない恩とやらの礼にか?」
「旦那、本当に覚えがないのか?」
 ガラガラと扉を開けて、少年が僕を店内へと手招きする。
「それとも旦那は気づいているのに知らぬフリして、あやふやに、ゆらゆらと、騙されるのも悪くないとでも思ってんのかい?」
「何を異なことを。言っただろう、僕が知っていることなど―――わかっていることなどまるでない。無知が罪であるならば僕は大罪人となるだろうね」
「ははっ」
 と、少年が可笑しそうに笑う。
 笑われているのか、僕は。まぁよい。そのようなことは日常茶飯事なのだから。
「して、君も一緒に食べるのだろう?」
 店に一歩足を踏み込んでから黒帽子の少年に向かって振り返ると、はたとして少年の姿がなかった。
 店の中にも外にも。
 忽然と彼の姿がどこにも居なくなっている。
「いらっしゃい。お客さんがあれだね、先にご注文だけされていった―――」
 店主が出てきて席へと案内されたのだが、その間、どうにも僕は釈然としない心持ちでなにがなにやらわからぬ内に席へと着いた。
 店内に客はおらず、中の様子はごく一般的ならーめん屋の趣だ。
「先に注文したっていうのは、黒い帽子を被った少年のことですか?」
 店主に問うと、うーんと顎に手を添えて唸っている。
「それがどう注文されたのか、誰に注文されたのか、今となってはまるでわからないんです。不思議なことに降って湧いたように誰かから注文されたって記憶はあるんですが……」
 店に来た僕も、店に居た店主も、お互いに首を捻り合ってしまった。
 狐につままれたような、とはこのことである。
「しかしまぁ、注文されたもんは作ってしまったので、お出ししてもよろしいですか?」
「もちろん。それを食べてこいと僕も言われたような気がしますので」
 ならば、と店主は盆に載ったらーめんを運んできた。
「焼き醤油らーめんととろろ昆布です」
 北の果てのらーめん。香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる醤油らーめんだ。
「いただきます」
 まずはレンゲでスープから。
 焦がし醤油の味を想像しながら口へとスープを含むと、衝撃的なだしの風味に襲われた。
 濃厚で、強烈で、旨味成分をがしがしと舌へと届けてくる。
 それでいてまろやか。味に角がまるでない。
「昆布出汁か……」
 食通ぶって言ってみたが甚だ正解かどうかわからぬ。僕の舌は昆布出汁と鰹出汁の違いすらわからず、この間、豚骨スープだと思って食べていたらーめんが注文の手違いで味噌らーめんだったことすらある。当人としてはうまいうまいととんこつらーめんを食べている気でいたのだ。
 そんな僕がどう分析しようが、このだしの正確な正体は掴めないだろう。
 それでもこの美味なスープを例えるならば、すごい旨味スープ、である。なんかわからんがうまいのである。
 そのスープが絡んだらーめんを一気にすする。
「あついよぉ……」
 出来たてのらーめんは熱い。平気で人の舌を殺しにかかってくる。
 だから皆、熱い麺類を食べる時なんかはふぅふぅと息を吹きかけ少しぬるくしてから口へと運ぶのが常だが、僕は一度箸で掴んだものは間髪入れずに口へ運ばねば気がすまないという習性がある。悪癖と言ってもいい。
 だからどんなに熱いものでも、問答無用で口へと入れてしまうのだ。
 熱い、がうまい。
 らーめんは熱い方がうまいに決まっている。
 そして僕は見落としてはいない、一緒に運ばれてきたとろろ昆布の存在を。
 利尻と言えば昆布。つまりこのとろろ昆布も利尻産であろう。
 その土地のものを食べてこその旅だ。うには許さぬが昆布ならば大丈夫。むしろ好きだ。
 僕は小皿いっぱいに盛られたとろろ昆布をらーめんスープの中へと落としてみた。
 途端、スープを吸ってとろみを帯びるとろろ昆布。
「うまそう」
 思わず言ってしまった。
 スープ自体もとろりとしてきて非常に美味しそうだ。僕はレンゲでスープごととろろ昆布をすくい上げて口へと運んだ。
 熟練の和食職人が作り上げた懐石料理の一品―――そう思えてならないほどの上品な味わいがそこにはあった。
 要約すると、うまそうなものを口に入れたらうまかった。
 とても単純で明確な理論である。
 気づけば僕はものすごく集中し、旨味が詰まったらーめんを一心不乱に食べていた。
 スープの最後の一滴まで飲みきって、丼にはなにも残っていない状態になるまで、目の前のらーめん以外のことなどなにも考えずに、食べきった。
「ごちそうさま」
 まさに至極の一杯。
 利尻島でこれほどまでに美味なるらーめんとの出会いが待っていたとは。
 黒帽子の少年に感謝せねばなるまい。
「ところで店主。このらーめん先にお代が払ってあると言われているのだが、本当なのか?」
「それが……その」
 店主は厨房から出てくると、手のひらほどもある見事な大きさの木の葉を三枚ほど持っていた。
「まるでお札でも置いておくようにこんな木の葉が三枚、カウンターに置いてあったのですが……」
「まるで狐に化かされたようじゃないか」
「いやぁ、でもこの島には狐も熊も鹿だって居ないんですよ。居ない動物に騙されるかなぁ……」
「いいさ。当然ながら僕が払おう。その代わりに」
 僕はお代を店主に渡すと、代わりに店主の手から三枚の木の葉を貰い受けることにした。
「土産にもらっておくことにするよ―――ところで、鬼刺岬というのはここから近いのかな、遠いのかな?」
 尋ねると店主は不思議そうな顔をした。
「鬼刺岬……? そんな岬あったかな? 鬼脇っていう地名なら昔にあったけれど、鬼刺岬なんて聞いたこともないね」
「……そうか。ならよいのだ」
 僕は美味なるらーめんの礼を言ってから店を出た。
 海から来る濃い霧が立ち込め、ちらちらと雪が降り始めていた。
 吐いた吐息は白く揺蕩い―――まるで誰かを探し彷徨っているようでもあった。

 汽笛が鳴っている。
 まもなく出港する合図だろう。
 僕は島の宿に一泊して、朝に出る船で帰ることにした。
 昨夜、天麩羅さんは宿には戻ってこなかった。忽然と消えたまま、ありもしない鬼刺岬とやらに行ったきりだ。
 港にある長椅子に座っている僕は、自家製の煙草を口に咥えて火を付けようか付けまいか、もぞもぞとした心持ちだ。
「このまま消えちまえばいいさ」
 やっぱり煙草に火を着けて、深く吸い込む。
 下宿人の天麩羅さん―――思えば素性もなにも知りはしない。
 身銭欲しさに自分の家の空いている部屋を貸そうと思い立ち、下宿人を受け入れる旨のはチラシを張ったその矢先、彼女は我が家を訪ねてきた。
 それもおでんがいっぱいに入った鍋を持って。
「下宿代はありませんがおでんならほら、こんなにたくさん。これで一部屋貸してはいただけませんか?」
 あまりに無茶な言い様に、呆れた口が塞がらなかったのだが―――そんな塞がらない口が、おいしそうなおでんを出迎えたがっていた。
「寒いのだから玄関先に立っていないで中に入り給え。おでんも冷えてしまうだろう」
 彼女とおでん鍋が、その日から我が家に増えたのだった。
 そんな風に唐突に現れたのが彼女なら、唐突に消えていなくなってもそれが彼女の流儀と思えなくもない。
 ただ少し、帰路が孤独になったというだけで。本当にただそれだけで、寂しくともなんともない。僕はもとより孤独が嫌いではない。
 汽笛が鳴る。
 出港が迫っている。
 煙草を吸い終え、僕は長椅子から立ち上がると荷物を抱えて立ち上がった。
 船の切符は懐にある。なぜだか二枚ある。一枚は無駄になってしまったけれど。
 さて帰るか、と足を踏み出したところで。
「あら、センセイ。私を置いてゆくのです?」
 少し、時間が止まった気がした。
「君なぞ、置いていこうが海に沈めようが、しれっとした顔で再び私の前に現れるのだろう?」
 天麩羅さんが僕のすぐそばにやってきている―――ように目の端には写っているが、そちらに顔を向けられなかった。
 顔を向ければ、今の僕が非常に情けない顔つきをしているのがバレてしまうからだ。
「すっかり消えてしまったもんだとばかり思ったよ」
「センセイは私を幻かなにかだと思ってるのですか?」
「そんなようなものだろ。一体、昨夜はどこに行っていたんだ」
「言ったじゃないですか。鬼刺岬で月光浴をする習いなのだと」
 天麩羅さんが一歩、僕に近づいた気配がする。
「月光浴があまりに気持ちがよくってついつい長居してしまいそうになったんですが―――はんぺんが」
「はんぺん?」
 急になにを言い出すのか。脈絡がなさ過ぎてオウム返しに聞き返してしまった。
「夢心地で帰るのも忘れていたらですね。ふと道端においしそうなはんぺんが一枚、また一枚と落ちていて、それを夢中で拾っていたら気づいたらセンセイの元までこうしてやってきてたのです」
「落ちているはんぺんなんぞ拾うなよ。食えやしないぜ」
「おでんに入れたらさぞ美味しいだろうなと思いまして。でもどうも夢だったみたいです。だって私、はんぺんじゃなくて木の葉を三枚、握っているだけですもの」
「木の葉ってそれじゃあ昨日の僕と……」
 はっとして僕は懐に手を入れると、そこには仕舞っておいたはずの木の葉が三枚ともなくなっていた。
 そこでようやく僕は天麩羅さんの方へと顔を向けると、天麩羅さんは味楽の店主から貰ってきたあの三枚の木の葉を指先で摘んで持っていた。
「それは……その木の葉は」
「なんです?」
「僕のだ。返し給え」
「嫌ですよ、私が拾った木の葉ですもの。それになんだか昔なじみの匂いがする気がします」
 すんすん、と鼻先で木の葉の匂いを嗅ぐ天麩羅さん。
 にししししと僕の頭の中で例の黒帽子の少年の笑い声が響いた気がした。彼に手引されているような気がしなくもない。
 それなら、あの少年の手引というのなら―――天麩羅さんをこちら側に、僕の元へと返してくれたということだろうか。
「天麩羅さん、手を出しなさい」
「はい?」
 天麩羅さんは言われたとおりに僕へと手を差し出した。
 小さくて白いその手を僕は両手で包んだ。
「冷たい。まるで雪玉を握っているようだ。夜通しの月光浴はさぞ体が冷えただろう」
「センセイの手は温かいですわ」
「まぁ、あれだ。湯たんぽでもあればいいんだが、あいにく用意がなくてね。だから温めておく為にだな。だから……その……」
 僕はうつむいて、彼女の顔から目を逸した。
「手をつないで帰らないか……?」
 こんな言い方しか出来ない自分が情けなかった。
 きっと天麩羅さんはこんな僕を笑うだろう。そう思ったけれど。
「いいですね。手をつないで帰るなんて、子どもみたいで。かわいいですわ」
 天麩羅さんは僕の手を握り返してくれた。
 僕はもう天麩羅さんと手を握り合っているだけなんて耐えられなくって、さっさと船に向かって歩き出した。
「ところでセンセイ。大層な荷物ですね、なにかお土産買われたんですか?」
「買ったさ。昆布だよ、昆布。利尻の名産だろう?」
「あら、昆布なんて買って。センセイ料理なさらないでしょう?」
「だったら君がすればいい。この昆布を使った君のおでんが食べたいと思ったから、つい買い込んでしまったのだ。責任とって大晦日にはおでん作っておくれ」
「承知いたしましたわ」
 その時には君が拾いそびれた、おいしそうなはんぺんを存分に入れるがいいさ。
 利尻の昆布で取った出汁、そのおでんはさぞうまいだろう。
 考えているうちにぐぅとお腹が鳴りそうだ。
 帰りの船旅は天麩羅さんと朝ごはんでも食べながら帰るとしよう―――そうそう、この島で知り合った不思議な少年の話もしたいところだ。
 三度目の汽笛がなる。
 僕は天麩羅さんと一緒に、帰路につくことにした。

 おしまい。

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