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コロナで夫を亡くしたこと その1

書いておきたいあの日のこと

note更新がずっと止まっていました。
何も書いていないわけではなく、ぼちぼち色んなところで書きながらではあるのですが。日常のことはTwitterとインスタストーリーに上げているのが主です。
でもそろそろブログやnoteも書いていきたいな、発信増やしたいなと思っています。そしてその前にやはり、一つ書いておかねばならないことがあるのです。誰かに伝えたいわけではなく、自分の記録として。
なのでちょっと直接的な表現もありますが、読みたくない方はここで閉じてください。

2021年4月30日。夫が亡くなりました。コロナによる肺炎でした。
もう2年経ちました。でも、気持ちってそんなに変わらない。悲しみって時間とともに癒えるもの、時間に比例して減るものかと思ったけど、そんなことはないんだって初めて知りました。
例えて言うなら(例えが悪いかもしれないけど)、手足をなくして、それで普通に生活が出来るようになったとしても、なくしたものを忘れはしないし、何年たってもなくしたものを悲しむことはあるだろう。そんな感じ。
ひとときの衝撃は薄れても、30年間一緒にいた人が、この後一生いないんだから。

会社から帰ったとき、いつも玄関に置いていた腕時計と手帳とボールペンが、今もそのまま置いてある。救急車に乗る時にバッグに入れた夫の財布を、今は自分のものとして使ってる。
次の車はフリードとシエンタどっちにしようか、と言っていたから、今でもフリードとシエンタがいると、つい見送ってしまう。

人は死んだら終わりじゃないんだな、というのも実感します。夫の使ってたもの、買ってきたもの、夫の言ったこと、好きだったこと、そこらじゅうにあるから。生活からそう簡単に消え失せたりしないんだなと。

コロナであると気付かずに

一昨年の4月半ば。夫が大阪への出張から帰ったあとのこと。
「口開けて寝ていたせいでのどが痛い」と言い出し、「熱はないけど出勤出来ないから家で仕事をする」と。そこから10日ほど、在宅で仕事をしていました。疲れて週末は寝てばかりのことも多かったので、寝るに任せていて。普段から咳をすることも多かったので、咳を特別気にしなかった。お腹も壊していたし、過労と胃腸炎かなとは思っても、コロナとは疑いませんでした。
まだ一般のワクチン接種は始まっていなかった。私は一応医療従事者だから、先に2回の接種を終えていました。まだ「デルタ株」という言い方すらされていなかった頃です。

家の薬を飲んでも良くならないので、医者に電話をして電話診療を受けました。もともとしつこい咳が残りやすいので「レントゲン撮ってもらった?」と言うと「出来るわけないだろ」と。直接診られないので当然ですが。
医者の方もコロナは疑わなかった。「発熱・接触者外来」は、発熱も濃厚接触の覚えもなければ勧められません。

その日、4月30日。私は連休前で仕事が忙しく、買い物をしてから帰り、話をしました。顔色がすごく悪く、起き上がるのもつらそうだった(それでもメールを書いたりして仕事はしていた)ので、「救急外来に行って点滴をしてもらおう」と言いました。
「うん。点滴すれば元気になると思うんだ…」
「今日行く?」
「いや、明日でいい」
それが最後の会話。
私は食事を作って息子に食べさせて、野球の結果を確認。
様子によっては今夜救急外来に行こうと思い、夫の様子を見に行きました。

夫はベッドの上で、座った姿勢のまま倒れていました。
声を掛けても反応はなく。触るとまだ温かかった。でも脈がない。息をしてない。血の気が引く。
大急ぎで階下に行き、三男を呼びました。長男はもう家を出ていて、次男は友達の家に泊まりに行っていた日。三男が来てから、自分のスマホを出して、一つ深呼吸。使ったことのない緊急通報。落ち着かなくては。
よく住所が出てこない、というのを聞きますが、住所は出てきたものの、年齢が出てこなかった。誕生日は分かるんだけど、それで今何歳なのか分からない。
気道確保して、耳で指示を聞きながら心臓マッサージを始める。
「息子さんと交代で」と言われたけど、間もなく救急車のサイレンが聞こえてきたので、息子を家の外に行かせて案内させました。

昔、長男が生まれる前に救急救命講習は受けたことがありました。自分の子どもに何かあったとき、冷静に出来るだろうか?とは想像したけど、まさか夫に最初にすることになるとは思っていなかった。
仕事が忙しくて疲れもひどくて、過労死したらどうしようなんて思ったことはあったけど、覚悟なんて何もない。親も双方4人とも健在。身近な存在を亡くす経験すらしてなくて。でも心臓マッサージをしながら、万が一の覚悟をどこかからひねり出さなきゃならなかった。

救急隊は一番家に近い消防署から来てくれていました。だから早かった。
マッサージしたり、電気ショックをしたり、「挿管します」と言われて気管挿管もして。
しばらくしてそのまま救急車に乗せて。保険証とお薬手帳だけ持ってきて、と言われてお薬手帳を探したけど、それは見つからず。血圧が高かったりして薬をもらってはいたと思うけど。夫の財布と自分の財布を持って乗りこみ、三男は家に残しました。救急隊が来た時に猫が来ないよう部屋に閉じ込めていたから、後で出すように言っておいて。
運ぶ病院はやはりなかなか見つからず。自分が勤めている病院も救急病院なのだけど、処置室に空きがないので無理と。でもしばらくしてから病院が見つかり、そちらへ。

30分ほど、処置は続いて。
医師が出てきて、合計1時間ほど処置をしているが心拍も戻らない、もうこれ以上は…ということを言われて。そこで死亡を確認。
いざとなると、取りすがったりとか声出して泣いたりとか出来ないものなんだな…
何だろう。自分が心臓マッサージをしていたからか。その体の中にもう生命がない、ということを感じてしまったからなのか。
一度だけ、触れた腕はもう冷たかった。

息子たちと、自分の親姉妹と、義姉たちに連絡。彼の親と親戚には義姉に連絡を頼んで。
病院からは解剖のことを言われたけれども、しばらくしてから「CTを撮る」と言われました。義父母と義姉が来て、息子二人も到着。
CTの結果で初めて「両側の肺が真っ白なので、コロナ肺炎で間違いない」と。
本当に感染には気を付けていた人だったからびっくりしたけど、逆に「そうか」と納得する部分も。大の男が10日やそこら寝込んだだけで死んでしまうんだから…。そういう劇症化を聞いてはいたけど、本当に身近に起こるとは、やっぱり思っていなかったのです。
それまで身近に感染者がいなかった。第四波とかデルタ株とか…そう言われるのはもう少し後の話です。

テレビで見たようなことが現実に

そこから先は、テレビで見たりしていたようなことの連続。特殊な納体袋に入れられて、顔も見えず。「挿管された管がついたままなんですね」と言ったら、それがあればウイルスが逆流することはないから、と言っていました。もう息はしていないのでほぼ心配はないのですけど。
保管される場所も出口も通常とは違うので、遅くに到着した長男は一目も会うことは叶いませんでした。
そのままコロナでも扱ってくれる葬儀社に連絡が行って、深夜の2時に病院で打ち合わせ。一応自宅での病死になるので、警察からも連絡が来て、それは電話一本で終わり。
葬儀社に引き取られた後は、直で火葬になる。ただ、立ち会いを許可してくれる火葬場があるそうで、そこに頼むようにお願いしました。ほかの家族が終わったあとの時間で、収骨も可能だというので。

4月30日。ちょうど連休に入るタイミング。
職場には同僚のLINEグループで報告。夫の職場は土日祝は連絡がとれないので、連絡は連休明けになる。
明け方近くになってから病院を出て帰りながら、頭の中は、とりあえず生活をどうしたらいいのか、でいっぱい。
次男は大学4年生、三男は専門学校生。学費はもう最後の方だったけど。

家に帰って、寝られそうもないので、まず夫の寝ていた部屋に行きました。
衣類やシーツやカバーを全部ひっくるめてゴミ袋に入れて、そこらじゅうを消毒。
トイレ、洗面所、歩いたところ、ドアノブまで。寝たり起きたりの間も部屋からはほとんど出なかったから、それほど広い範囲ではないけど。

それからプロ野球ニュースを見た。割と平静に。

息子たちがいてよかった。
猫がいてよかった。
野球があってよかった。

続きます。
→ コロナで夫を亡くしたこと その2


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