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「名言との対話」11月22日。徳川慶喜「予を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、旧字体: 德川 慶喜)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代日本政治家華族

常陸水戸藩徳川斉昭の7男。母は徳川吉子(貞芳院)。一橋家をつぎ将軍後見職として徳川家茂を補佐。英邁さから「権現様の再来」といわれる。家茂の死後に将軍となり幕政の改革をはかるが、大政を奉還し将軍職を辞任。鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸開城後は水戸ついで駿府で謹慎した。以後表舞台にはたたずなかった。76歳で死去。260年以上続いた江戸幕府の最後の第15代将軍。

2006年に私が静岡で泊まったホテルは「浮月楼」という庭園の隣だった。この庭園は江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が悠々自適、20年にわたって過ごした地である。徳川幕府の代官屋敷であった駿府の地を、水戸で恭順謹慎していた前将軍徳川慶喜が手に入れた。当時日本一と言われた京都の庭師・小川治兵衛がつくった庭園である。その後、浮月亭という料理屋ができる。明治の大火、昭和の大火で現在は建物は消滅したが、庭園は生き残った。その間、伊藤博文井上馨、西園寺などの元勲が愛した。

この庭園を観るために、懐石・吟醸桟敷の「浮殿」というギャラリー館で夕食を摂った。池の周りの木々の緑が美しい。春はさくら、夏は青葉、秋は紅葉で彩られ、野鳥の鳴声を聞ける東海の名園として有名である。食事前にこの庭園をひとまわりする。ホテルの近くに渋沢栄一がつくった商会所跡の石碑があった。渋沢は慶喜の従者として静岡でも活躍した。この商会所はその後渋沢が全国につくったの商工会議所の前身だろう。

2008年に水戸の弘道館を訪問した。傑物・斉昭が熱心に教育した慶喜は、退勢覆うべくもない状況下で将軍となる。英邁と言われた将軍であったが、薩長の官軍に対してあっけなく大政奉還を行い、歴史を回転させたあとは、ひたすら静かに暮らした。一時水戸で謹慎してりいたが、駿府(静岡)で晩年というにはあまりに若く隠棲してしまう。32歳であった。慶喜東海道開通による喧騒を避けて、転居している。

後の徳川慶喜が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭慶喜に過失があったときにいさめる役割の臣下が必要と考え、藤田東湖に人選を依頼した。平岡円四郎の才能を認めていた川路聖謨藤田東湖から推薦され、仕えることとなった。徳川慶喜の前半生は、この平岡が右腕となって支えた。将軍継嗣問題での慶喜擁立運動、将軍後見職時代の改革、朝廷参与時代の薩摩藩との暗闘、禁裏守衛総督への就任などで辣腕をふるった。歴史に登場するのはわずか6年であったか。この辺りのことは、NHK大河ドラマの「青天を衝け」でみた。

慶喜駿府に隠居しても最後まで渋沢栄一はに忠誠を尽くした。明治政府から出て来いと言われても行こうとしなかった。しかし徳川慶喜から行って仕事をしろと言われて行く。青森県の三沢というところに、渋沢公園がある。渋沢家で修業をした人が営んだ大ホテルの経営者が作った公園だ。ここに慶喜の伝記があった。1911年に慶喜が没した後、渋沢は1918年の78歳のときに「徳川慶喜公伝」を刊行している。

「天下を取ることほど、気骨が折れることはない」

「家康公は日本統治するために幕府を開かれた 私は、その幕府を葬り去るために将軍になったのだ」

「この世をばしばしの夢と聞きたれど おもへば長き月日なりけり」

32歳で静岡駿府に移住し隠遁生活では、恭順しなかった榎本武揚など旧幕臣にとは関わり合いを拒否している。それから76歳まで44年間あった。自転車のサイクリング、写真撮影、釣り、油絵、刺繍、囲碁、猟銃、鷹狩、鵜飼、投網、謡曲、能、講談、、、、。一時期に集中するというやり方だった。結果的に多趣味となった。10男11女をもうけている。

徳川慶喜に関する同時代の人物評をみよう。木戸孝允「胆略、決して侮るべからず」。伊藤博文「実に偉い人だ」。大隈重信「幕府の終局を完結して、維新の昌運を開かれた」。渋沢栄一「何の言い訳もされなかった」。

最後の将軍として維新後の評価は低かったが、明治維新最大の功労者と再評価する向きもある。江戸城無血開城によって、第二の関ケ原を避け、また外国の介入を防いだとの評価である。

予を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」と語っていたという。慶喜に生涯仕えた渋沢栄一は、後に伊藤博文との交わした会話を記している。伊藤は、「今にして始めて其非凡なるをし知れり」といい、慶喜公に「維新の初に公が尊王大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問い試みたり」、「唯庭訓を守り氏ひに過ぎず。、、、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめわすること勿れ、万一の為に諭し置くなりと教えられき、、」と答えている。

慶喜の行動はこのような教えに基づいていたならば理解できる気もする。幕府の内情、実態をよく知っていて、政権を放棄したのだろう。

徳川慶喜徳川幕府の後継者ではなく、実は水戸藩の後継者だったのである。

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