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「名言との対話」9月25日。石橋湛山「本を読んだら、そこに書いてあることを絶えず実際の問題に当てはめ、自己の思考力を訓練し、学問を実際に応用する術を体得しなければならない」

石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年明治17年〉9月25日 - 1973年昭和48年〉4月25日)は、日本ジャーナリスト(東洋経済新報社長)政治家(総理大臣)教育者立正大学学長)。

62歳、吉田内閣大蔵大臣。63歳、公職追放。68歳、立正大学学長(16年間、84歳まで)、70歳、鳩山内閣通産大臣。72歳、総理大臣。88歳、「石橋湛山全集」15巻完結。死去。

2017年に山梨平和ミュージアムーー石橋湛山記念館を訪問したときに、案内していただいた浅川保理事長の『偉大な言論人ーー石橋湛山』(山日ライブラリー)を読んだ。

山梨一中校長の大島正健は札幌農学校第一回卒業生で13年5ヶ月にわたり校長を務めた。湛山が薫陶を受けたのはわずか1年だが、大きな影響を受けた。湛山はこの甲府中学へは2年早く入学できたが、2年落第している。湛山は中学時代から校友会雑誌などで活発に文章を発表している。甲府から石和、勝沼、笹子などへの旅行記は若さゆえの大胆さとユーモアに溢れている。また論客であり、「石田三成論」では、「成敗と是非とは判然別事に属せり、成敗は当時の形勢によりて別れ、是非は後人の公説によりて定まる」と主張している。卒業時、53名中17番。一高受験失敗、翌年も失敗し、早稲田へ入る。

以下、湛山の主張から。

明治神宮の建設ではなく、日本と世界の人心の奥底に明治神宮を打ち建てよ。明治賞金(ノーベル賞のような)を設定せよ。

帝国主義大日本主義を批判し、平和主義である小日本主義を主張。「一切を棄つるの覚悟」では、「我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていること、志の小さいことだ」と断じた。満州や朝鮮の領有が経済にも人口問題に解決にも役にたっていないことを指摘し、「満州を棄てる、山東を棄てる、その他志那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる」「世界の弱小国は我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう」「従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である」。「兵営の代わりに学校、軍艦の代わり工場を」。「帝国議会の会期3ヶ月を改めて常設」を主張。

・現代の人心は何故に浅薄弱小なのか。自己の立場についての徹底した智見が欠けているからだ。

石橋湛山という政治家は、総理大臣の椅子を病気によって71日という短い期間で潔く退くという見事な出処進退と、日本の進むべき道として「小日本主義」を唱えたことで知られている。湛山は72歳で総理になり、亡くなる前年に「石橋湛山全集」15巻を完結させ、4月25日に88歳で大往生した。

湛山はリベラリズムを標榜した政治家であった。組織、国歌、イデオロギーから自由であり、人間第一、個人第一の思想がリベラリズムである。

石橋総理の国民へのメッセージは「国民諸君、私は諸君を楽にすることはできない。もう一汗かいてもらわねばならない。湛山の政治に安楽を期待してもらっては困る」であった。

湛山は中江兆民福沢諭吉を評価している。特に福沢の「縁の下の力持」は処世の教科書として、福沢を尊崇している。これは読まねばならない。

本を読んだら、理論を学んだら、実際の問題にあてはめてみるのが真贋を見分ける一番いい方法だ。適用できなければ、理論を疑おう。理論とはモデルのことだが、そのモデルが応用範囲が広ければ大理論だ。狭い範囲しか提供できなければ小さな理論だ。石橋湛山という人物はマスコミ時代からそういう勉強法を採用していたのだろう。だから、政治家になってもそのまま通用する経済理論を持っていたのだ。

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