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「名言との対話」11月7日。日吉フミコ「悲惨な現実を見た者の責任」

日吉フミコ(1915年3月5日ー2018年11月7日)は、市民運動家。103歳で没したセンテナリアン。

熊本県北合志村(現菊池市)生まれ。県女子師範学校を卒業。戦時中は満州、台湾で教員を務め、1951年にチッソの城下町といわれた水俣市の小学校教諭となった。教頭時代の1963年48歳のとき、児童の見舞い先で1956年に公式認定された水俣病患者の実態に触れ、「患者の力になりたい」と決意し、教職員労働組合の要請もあって市議に転じ、1979年まで4期16年間、市議をつとめた。

1968年1月、作家の故石牟礼道子や市職員、教職員らで結成した市民会議の会長に就任した。その6日後に県内を訪れた当時の園田直厚相に直訴。1968年9月26日の公害認定に力を尽くした。

チッソに初めて損害賠償を求めた水俣病第1次訴訟を物心両面で支える市民会議を文字通りけん引。1973年3月の勝訴判決確定後は患者らとともに東京のチッソ本社に乗り込み、交渉団とチッソの直接交渉を見守り、同年7月、補償協定の調印式では立会人を務めた。「負けとったら首くくらにゃいかんとじゃった」と、『水俣病患者とともに 日吉フミコ 闘いの記録』(草風館)の編者の松本勉との対談で語っている。

日吉フミコは、「悲惨な現実を見た者の責任」があると感じ、運動を推進していく。そして「行政が患者の切り捨てを続ける限り、水俣病は終わらない」とも語り、長年にわたり運動をリードしていった。「胎児性の子どもたちをどうにか救済するため、くじけずやってきた。水俣から全国に公害反対の動きが広まってくれた」「みんなが頑張って世界に(水俣病の悲惨さを)伝えられて本当に良かった」と後に述懐している。

私は1973年に日本航空に就職し、東京丸の内の本社のあった東京ビルに何度か通った。このとき、同じビルに入っているチッソに抗議する人たちをよくみかけた。今から振り返るとその年の3月の勝訴判決確定から7月の補償協定調印までの間だったのだ。新聞報道などで水俣病を始めとする公害問題が大きな話題になっていた時期だった。新入社員として初めて接したチッソの抗議する人たちの中に日吉フミコがいたのであろう。

水俣病の患者たちからは、 「苦しみを我がこととして一生懸命活動してくれた。神様のごつ思うとる」「先生は神様じゃった」「肝っ玉おっ母」「水俣病運動の母」「火の国火の女日吉フミコ」と感謝された。2015年には吉川英治文化賞を受賞している。
作家の石牟礼道子さんらと、水俣で初の患者支援組織「水俣病対策市民会議」(現在の水俣病市民会議)を結成し、会長に就いた。患者や家族を物心両面で支え続2015年には第49回吉川英治文化賞を受賞した。

48歳で 「悲惨な現実を見た者の責任」を感じ、その半世紀以上にわたる厳しい道を歩んだことに頭が下がる。103歳の尊い生涯である。

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