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「名言との対話」10月10日。高村光雲「芸術というものは、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ」

高村 光雲(たかむら こううん、1852年3月8日嘉永5年2月18日) - 1934年昭和9年)10月10日)は、日本の仏師彫刻家高村光太郎高村豊周は息子。

東京都台東区出身。仏師となったが、明治維新以後は、廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事は無くなり生活困窮したが、光雲は木彫に専念し、西洋の写実主義も取り入れ木彫を復活させた。38歳から東京美術学校で教え、教授となった。江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる功績があった。

上野の西郷隆盛像は誰もが知っている代表作だ。皇居前広場の楠正成像、聖徳太子像、なども有名だ。私は立膝 姿で岩の上に坐り、はるか上空を見据える老いた猿を描いた傑作「老猿」に心をひかれる。

東京美術学校を創設した岡倉天心は、人に教えるような柄ではないという光雲に、「あなたがお宅の仕事場でやっていることを学校へ来てやってください」と説得している。

天心が校長を辞任することになったとき、光雲も辞めようとしたが、天心自身と文部省に慰留されて、思いとどまって、教育者として多くの人材を育てた。

1875年の神仏分離に伴い、従来神社に混淆されていた仏寺はことごとく分離され、仏教はいちじるしく衰退した。また仏教美術も破棄される運命となり、仏像の需要が減退し、仏像を彫る仏師の仕事も衰退した。それは木彫の衰退を意味した。多くの木彫家は象牙彫に転じたが、高村光雲のみは、木彫をまもった。その光雲弟子の一人が平櫛田中である。

岡倉天心高村光雲に、絵画の面では、どうにか糸口がついた、しかし彫刻の部では、なんにも手をつけていないので木彫家たちと会ってみたいと言う。そこで平櫛田中ら6名が天心を訪ねた。彫刻家たちが作品が売れないと苦しさを訴えたとき、後に生涯の師となる岡倉天心は「諸君は売れるようなものをお作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。必ず売れます」と田中らは言われている。このとき田中は、売れないものを作るのは雑作もない、自分の好きなものを作ればいいのだ、と感じた。それがきっかけで後に天心を会長とした日本木彫会が結成される。

2011年。大震災で打撃を受けていた東京江戸博物館が再開し、「五百羅漢」展を開催していいて訪ねたことがある。幕末の絵師・狩野一信(1816-1863年)というあまり知られていない画家の百幅の絵が増上寺にあるが、それをすべて公開するという画期的な企画である。この企画は法然(1133-1212年)の没後800年を記念した企画だ。高村光雲はこの絵師について、「画才はむしろありすぎるいふくらいありますが、ただ惜しむらくは人格が貧しい、それで重くは用いられなかったが、腕はなかなかあった」と評していた。

2017年に横浜美術館の「篠山紀信 写真力」をみたが、その篠山紀信は人物写真では「仮面の上に仮面をつけることこそ、その人のリアリティを獲得することだと思っている」と語っている。そして「いや、(写真は)芸術よりももっと上にあるものでしょう、、写真はもっともっと大きなものです」と信じ現代を疾走していた。嘘を承知で創るほうが、リアリティがでて本当になる。明治の木彫のトップ・高村光雲も同じことをいっている。

仏師という職業は無名の職人である。その仏師が名のある彫刻家となり、多くの優れた弟子を育てた。その一人が、長男の彫刻家・高村光太郎だ。高村光雲は、近世から近代への彫刻の橋渡しをしたのである。

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