「名言との対話」 5月24日。大宅昌「人が己に対して冷たいと思う前に、己が人に対しどれほどの温かさをなげているか」

大宅 昌(おおや まさ、1906年10月19日 - 2007年5月24日)は、評論家。大宅壮一の妻で、大宅壮一文庫の理事長。

富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」の理事長を1971年に発足以来、終生務めた。長男は夭逝した大宅歩。三女映子はジャーナリスト。老衰のため横浜市の自宅で死去。100歳没。

大宅壮一は70歳で亡くなっている。6つ下の昌は100歳まで到達したセンテナリアンである、夫の死から36年を生きた。1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。

2016年11月22日の「名言との対話」で私は大宅壮一を取り上げている。マスコミ界の怪人で造語の名人だった。「一億総白痴化」「恐妻」「駅弁大学」「青白きインテリ」「口コミ」などは大宅の造語である。70歳で亡くなった大宅壮一は「しまった。ライフワークを手がけるのが10年遅かった」と痛恨の言葉を残している。大正時代をライフワークとして書きたかった大宅がサンケイ新聞に連載した『炎は流れる』は、1963年元旦から1年10か月、4444回で中止となったのである。この人にして突出した名著、満足できる書物を遺すことができなかったのだ。高齢社会においては、「ライフワークをつくりましたか」、この問いが重要になる。

私のブログに大宅壮一という名前は頻繁に登場する。それは本人が在世中に発足した「大宅壮一ノンフィクション賞」を受章した本の読後感が多い。桐島洋子、佐野眞一、近藤史人、森健、中村ひろ子、児玉博、山崎朋子、米原万里、深田祐介、辺見じゅん、イザヤ・ベンダサン、安田峰俊などの受賞作品を読んでいる。こういった名前と作品を眺めると、大宅壮一という人の偉大さがわかる気がする。昌は在世中は、大宅壮一文庫理事長として表彰式には必ず出席した。

今回読んだ妻・昌の『大きな駄々っ子』(文春文庫)でも、「男子一生、二人以上の子を育て、家を建てることができれば、一人前といえよう」「男の顔は履歴書」「生まれた以上は人間として、出来るだけの仕事をしなければならない。しかも残る仕事を」などの名言があった。

昌の観察眼は壮一の日常や仕事への取り組みを教えてくれる。いわく、メモ魔、野次馬旅行、そして「歩きながら考え、読みながら考え、寝ながら考え、食事しながら考え」るというすさまじい仕事ぶりを伝えてくれる。

期待していた長男・歩は、ラグビーの後遺症で33歳で夭折する。その闘病生活と夫婦の心情を描いている。歩が書き残した遺稿である詩や文をからなった『詩と反逆と死』は、1966年に刊行されベストセラーになった。私も大学時代に大いに感激して読んだ本だ。

昌は壮一の自戒の言葉「美しく死ぬことはやさしい。しかし美しく老いることはむずかしい」を自らに向けた最高の人生訓として、結婚生活とほぼ同じ時間を未亡人として過ごしている。壮一のそばにいたこともあるのだろうが、文章もなかなか味がある。亡くなった偉人の妻が、その夫を語る本がある。そこには本人のほんとうの姿や、語りたくなかった秘密が登場するから、私もよく読むことにしている。その中でもこの本は出色の出来だ。

子どもたちの配偶者にも「当った」し、子どもたちは自分のまわりに住んでくれるなっど、晩年の昌は幸せだった。壮一から恐妻とからかわれたが、本人は「私は家具の一つであった」という。その温かい人柄は、エッセイの中で十分に知ることができる。

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