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「名言との対話」11月3日。山川菊栄「人類の黄金時代は、過去にはなく、未来にしかありえない」

山川 菊栄山川 菊榮、やまかわ きくえ、1890年明治23年)11月3日 - 1980年昭和55年)11月2日)は日本の評論家・婦人問題研究家である。

東京府立第二高等女学校を経て、1912年女子英学塾(現・津田塾大学)を卒ぎょぷ。1915年、堺利彦幸徳秋水大杉栄らの影響を受けて社会主義に接近する。1916年に」山川均と結婚。1918年ころから始まった、与謝野晶子平塚雷鳥の母性保護論争に加わり、平塚雷鳥伊藤野枝らを批判する。1921年日本初の女性社会主義婦人団体「赤瀾会」を結成する。1947年、日本社会党に入党。この年に誕生した片山哲内閣で新設された労働省の初代夫人少年局長に就任し、1951年までつとめている。1962年、婦人問題懇話会を設立。1974年、『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞を受賞。1980年死去。

夫となった10歳年上の山川均は、在野の経済学者で、社会主義者社会運動家・思想家・評論家である。菊栄は、山川均没後22年生きて活躍した。『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞。死去の翌年に山川菊枝賞が設立され2014年まで続いた。その菊枝は『山川均自伝』の「あとがき」で次のように均を活写している。

「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは、、、名人芸」。

戦後の1947年に、第一党となった社会党片山哲内閣が誕生した。首班指名選挙では2位が吉田茂齋藤晃の1票のみであった。保革共同のこの政権は8ヶ月の短命政権となった。この内閣で労働省が設置された。菊栄は初代にの婦人少年局長に抜擢されたが、片山内閣の崩壊後も、数年にわたって局長にとどまっている。仕事がよくできたのであろう。

この人の名は、社会主義者たちのことを調べるとよく出てくる。筆の立つ人で著書も多い。1919年尾「女の立場から」から始まり、「婦人問題と婦人運動」、「女性五十講」、「婦人と世相 評論集」、「新しき女性のために」などがある。

「女二代の記」を手にしてみた。水戸で育った母の千世と自分の人生を描いた作品である。幕末から明治、大正、昭和にかけての女性の立場や、運動の様子がわかる。記憶力、観察力、人物描写力、時代認識力など並外れた能力の持ち主だったことをうかがわせる内容だった。

山川菊栄は「人類の黄金時代は、過去にはなく、未来にしかありえない」とあとがきで書いている。明治はいい時代だったと人は言うが、女性の地位の向上のため、その途上で同志や先輩の犠牲と過ちを知ってもらいたいと吐露している。母の時代よりはだいぶよくなったが、自分の時代も、女の歩く道はいたるところ袋小路で、暗闇を手探りで歩くようなもどかしさと絶望的ないらだたしさにまみれていたのだ。女性の地位向上の列の先頭に立った人の貴重な生涯をみた。


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