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「名言との対話」7月2日。松方正義「我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ」

松方 正義(まつかた まさよし、1835年3月23日天保6年2月25日〉- 1924年〈大正13年〉7月2日)は、日本政治家財政家

鹿児島市出身。幕末は島津久光の側近として活動。明治政府では日田県知事時代に、別府湾の整備や、太政官札偽造事件を解決し、大久保利通の表を得た。その後、大蔵官僚として財政畑を歩む。大隈重信大蔵卿と対立し去る。

1877年に渡欧し、金本位制の導入の考えを持つ。パリ万博では暗殺された大久保利通の代わりの総裁をつとめた。帰国後は中央銀行設立を含む財政義を提出し参議大蔵卿となる。「中央銀行は、経済に『お金』という血液を送る心臓のような存在である」とし日本銀行を設立。松方は財政収支を大きく改善したが、デフレを招く。

1891年に総理大臣に就任。1896年には2度目の総理就任で、金本位制への復帰を果たした。しかしいずれも短命内閣だった。

元老となった松方正義は、日清戦争では前例にとらわれず、勝利に向けて大胆な予算を組むことを提言。また日露戦争にあたっては日英同盟を支持し、日露戦争推進論者であった。晩年は内務大臣もつとめている。明治天皇からの信頼は厚く、金本位制導入にあたっては裁可を得ている。伯爵、侯爵を経て、最後は公爵となった。葬儀は国葬だった。

以上のような経歴は申し分ないが、意外なことに同時代の政治家からの評価は芳しくない。村役場の役人風で、薩摩閥だったから総理になれたという。

女好きの松方は、男子15名、女子11名の計26名という子だくさんで有名だった。明治天皇から子どもは何人いるかと問われ、思い出せずに、後日調査の上、報告しますと答えたというエピソードがある。

那須野ケ原には、明治の重臣の別邸が多い。山県有朋別邸、乃木希輔別邸、松方正義別邸、大山巌別邸、三島弥太郎別邸、毛利元敏別邸など。このうち、松方別邸に私はビジネスマン時代に幹部社員だった松方という縁戚関係者と訪問したことがある。

三男の松方幸次郎は川崎造船社長時代にヨーロッパで大量に美術品を購入し、その松方コレクションが、現在の国立西洋美術館となった。

第二次大戦後、アメリカの駐日大使として活躍したライシャワーの再婚した相手は40歳の松方ハルで、彼女は松方正義の娘である。

以上はほんの一例だが、子だくさんの松方正義の子孫たちは、それぞれ処を得て活躍し、日本近代化に貢献している。そういう功績もあったともいえる。

「我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ」の後には、「正直に之を行へは人民必ず之をし信せん」と続く。島津久光からの信頼、明治天皇からの絶大な信頼のもとは、こういった誠実な態度に基づいているのだろう。政治力の不足はあったようだが、それを凌駕する正直さは、大きな能力であったといえるだろう。策士は策におぼれるところがあり、大成は叶わないことが多い。松方正義の生涯は、そのことを教えてくれる。

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