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「名言との対話」12月6日。島津久光「西郷、大久保に騙された」

島津 久光(しまづ ひさみつ。1817年12月2日‐1887年12月6日)は、江戸時代末期薩摩藩国父日本政治家

島津斉興の5男。母は側室のお由羅の方。薩摩鹿児島藩重富領主となる。藩内の派閥の対立があり、お由羅騒動に発展し、幕府の介入があり、異母兄の斉彬が藩主となる。島津斉彬の遺命によって久光の子の忠義が鹿児島藩主となると、本家に復帰して「国父」とよばれ藩政の実権をにぎった。

1862年に兵をひきいて京都にはいり、藩の尊攘過激派を弾圧(寺田屋事件)。また勅使大原重徳を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど、公武合体運動をすすめる。帰途に生麦事件が発生し、薩英戦争に発展する。

維新後、内閣顧問・左大臣に就任したが、保守的意見がいれられず1875年に隠退した。

島津久光は、多くの事件に巻き込まれている。

お油羅騒動。島津斉興は斉彬ではなく、お油羅の子の久光に藩主を譲ろうとする。このため二つの陣営の対立が起こる。斉彬派は切腹、遠投が多数出る騒動となった。英邁であった斉彬を支持する阿倍正弘の助力を得て、斉彬が藩主に就く。久光は斉彬に協力する。

寺田屋事件。京都にいた久光は藩内の尊王攘夷派が寺田屋に集結しテロを企てていることを知り、説得のため部隊を派遣するが、聞き入れられず、斬り合いになる。有馬新七らが斬られる。

生麦事件。久光が江戸から京都へ向かう途中、神奈川の生麦でイギリス人が久光一行の列に乱入したため、護衛の藩士が1人を斬り捨てる。イギリスは犯人の引き渡しを要求するが、久光は拒否。。

薩英戦争。イギリスによる賠償金請求も拒否し、薩英戦争に発展する。薩摩は甚大な被害を受けた。

斉彬を尊敬していた久光は、大久保利通を重用したが、精忠組の頭目的存在であった西郷隆盛とはそりがあわなかった。西郷は久光と会ったとき、「ジゴロ」と言いそれが久光に聞こえた。ジゴロとは田舎者という意味だ。西郷は久光によって2度も遠島の処罰を受けている。このあたりのことは、司馬遼太郎の『跳ぶが如く』などに詳しく紹介されている。維新政府が薩摩の処遇に頭を痛めたのは、西郷、大久保と久光との軋轢があったからである。

久光は大久保に、わしはいつ将軍になるのかと聞いたとも言われている。維新の功労者であった伊藤博文は、久光は西洋流は嫌いであったと観察している。大隈重信は、頑固、我がまま、強情であったが、学問があり、屈服させることはだいぶ困難だったと語っていた。

久光は保守だったから、維新政府の施策に納得できなかった。久光は「西郷、大久保に騙された」が晩年の口癖だった。薩摩という大藩の君主であった島津久光は、下級武士たちがつくり上げようとした国には賛成できなかったのだ。

違った国づくりが行われていたら、久光の役割は異なっていたかも知れない。後の時代からみる評価は一方的であるかもしれないのである。歴史と人物との関係にはそういうところがある。

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