見出し画像

7月29日。姫田忠義「記録は未来のためにある」

姫田 忠義(ひめだ ただよし、1928年9月10日 - 2013年7月29日)は、日本のドキュメンタリー映画監督、映像民俗学者である。

上京から半年後、日本読書新聞に掲載されていた民俗学者で『忘れられた日本人』を書いた宮本常一の記事に興味を抱き、日本常民文化研究所の宮本を訪ねた。「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ」が信条だった1907年生まれの宮本常一に師事する。

1958年、対馬で老人から「わしは、あんたにこの話をするためにいままで生きてきたようなものだ」と言われ、以後活動の原点となる。1965年から1966年にかけて製作された、宮本常一が監修をつとめたテレビドキュメンタリー「日本の詩情」の取材・脚本・構成を担当。日本各地の村々を取材して周り、日本列島の多様性に目覚める。宮本主催の雑誌「あるくみるきく」の取材などで、山村文化に注目して日本中の山々をめぐり、また沖縄やアイヌの人々などを訪ね歩く。1968年には「「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」という意味であります」と語るアイヌ文化研究者の萱野茂と出会い、アイヌの深い精神文化を教えられて感銘を受けている。

記録映画の撮影を始めたのは、高度成長期の1961年だ。新しいものが次々と作られ、地方の山村や漁村が大きく姿を変えていった時期だった。姫田は日本各地の消えゆく生活や文化を映像で記録し続けた。手がけた映画作品は100本以上にのぼる。山村や漁村で暮らす人々が、古来より連綿と受け継いできた知恵を見つめ直した。フランスなど海外からも「映像人類学」と注目された。

国立民族学博物館をはじめ、各地の博物館・教育委員会向けに、独自のビデオ作品を制作(合計約150本)した。姫田は記録映像作家となった。

「NHK人・物・録」では、人々が現在を生きる姿を通じて、人はどう生きてきたかから、人間本来のあり方を学んでいこうとし、「現在を見つめながら明日を考える」「記録は未来のためにある」「民族の文化は泉」であると語っている。人との出会いが、その人の人生を方向を決める。人との出会いが、仕事を飛躍させる。姫田忠義は、人との出会いに感動、感銘を受け、その出会いを信じ、全存在を賭けることができる人であった。

記録というものは、案外残っていないものだ。意識して残そうと努力する人がいなければ、実態はわからくなってしまう。記録は過去のためではなく、過去を知り現在を知ることによって、未来を考えるためにあるのだ。文章などの記録ではなく、民俗学、人類学の分野に映像という新しい記録の方法を持ち込んだ姫田忠義の功績は偉大だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?