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名言との対話」5月18日。柳兼子「やっと80歳になって歌が歌えたなという気がいたしますからね。長生きをしてよかったなと思います」

柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日 - 1984年(昭和59年)6月1日)は、日本の声楽家(アルト歌手)。
民芸運動を主導した柳宗悦の妻である。声楽家東京音楽学校卒。渡欧(ベルリン)。1954年国立音楽大学教授。1961年紫綬褒章。1972年芸術院会員。92歳で逝去。

2019年に日本民芸館の向かいに建つ「旧・柳宗悦邸」の見学ができた。2階には柳宗悦記念室がある。日本民芸館の設立趣意書、自筆原稿、著書などをみることができる。また書斎の壁半分を占める自らデザインした本棚には4万冊の蔵書がおさまっている。「今日も空 晴し又」という書がかかっている。

驚いたことに1階には「柳兼子記念室」があった。知らなかったが、兼子は宗悦の妻であると同時に声楽家としても大をなした女性であった。民芸館で売っていた松橋桂子編『柳兼子音楽活動年譜』を購入し兼子の生涯を追った。

兼子は芥川龍之介と幼稚園、小学校で同級だった。男と同等の立場でいこうと考え、声楽なら女の立場があると気がつき、東京音楽学校で声楽を学ぶ。歌い手になるよりも芸術家になりたいと考えた。師のペツォールドから「お前の声はドラマティックだ」と励まされた。

宗悦21歳、兼子18歳で出会う。22歳の兼子は歌を続ける条件で結婚する。宗悦の母の勝子は加納治五郎の姉である。1924年、宗悦は同志社女子専門学校教授となる。1925年、兼子は33歳で同志社女子専門学校講師になった。宗悦の収入は朝鮮の民芸品や本代に消えるため、生活費は兼子の肩にかかっていた。36歳、発音の勉強と実力を試すためにドイツに半年滞在し、独唱会をひらき、「東京の柳兼子、それは異常な出現である」と新聞で絶賛される。兼子は「声楽の神様」と呼ばれている。

兼子は民芸運動創始者柳宗悦夫人であり、宗理(インダストリアルデザイナー)、宗玄(美術史家)、宗民(園芸家)の3人の子どもを育てながら、歌と家庭を両立させた。日経新聞では「女の中の女」と紹介されている。62歳、国立音楽大学教授。年1回のペースでリサイタルを続ける。69歳の宗悦が民芸館で椅子に座ったまま昏睡状態、その後72歳で死去。そのとき69歳の兼子の人生はそれから23年あった。

日本の声楽家は50歳で引退する人が多いが、自分は80歳でやっとうようやく歌が歌えたなという気がいたしますと語り、長生きをしてよかったと思う。83歳でアルトの声でリサイタルをしている。リサイタルは公式には85歳まで続くが、87歳まで頑張っている。肉体を楽器とする声楽では世界的にみても稀有の例であった。

92歳で亡くなったときの葬儀では長男で喪主の柳宗理は「母なしには民芸館は建たなかったと思う」と挨拶をしているから貢献度もきわめて高い。日本の声楽の基礎を築いたアルト歌手は92歳で天寿を全うした。不撓不屈で研究を続けたところにこの人の偉さがある。高齢化時代の女性の生き方のモデルである。

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