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「名言との対話」1月12日。調所広郷「やむを得ません。引き受けます」

調所 広郷(廣郷)(ずしょ ひろさと、安永5年2月5日1776年3月24日) - 嘉永元年12月18日1849年1月12日))は、江戸時代後期の薩摩藩家老

安永5年2月5日、鹿児島城下の下級武士川崎家に生まれ、のち調所家の養子となった。前藩主島津重豪付きの茶坊主となったことから累進して御側用人となった。薩摩藩では重豪の隠居後急速に藩債が増加して、文政(1818~30)の末には500万両の巨額に達した。

1827年に調所はその財政改革主任を命ぜられ、以来死力を尽くして改革にあたった。顕著な方策としてまず奄美大島、徳之島、喜界島三島の砂糖専売政策をとり、三島砂糖の売買を厳禁し、違反者は死刑などの極刑に処し、上納後の余分の黒糖についても島民の日用品と交換する仕組みで、それを大坂市場価格の4分の1ぐらいで引き取った。また藩債500万両を年2万両ずつ返済する藩債250年賦償還法をとり、さらに米、菜種その他の国産品改良や密貿易などで利益をあげた。

こうしてついにみごと財政改革に成功、天保 (1830~44)末期には藩庫備蓄金50万両のほか、諸営繕費用200万両余に達したという。財政改革の功により家老となり、開明派の世子斉彬 と対立したが、幕府より密貿易の嫌疑を受け、嘉永元年12月18日急死、自殺という。以上、世界大百科事典の記述から。

調所はもともと午前2時、4時まで書きものをする大の勉強家であり、商人、農民、大工などに聞き、情報に通じていた。そのため島津重豪に気に入られて、放漫財政で危機に瀕した財政の立て直しの責任者になるようにいわれる。調所は成功の見込みはなく、みずからもこの分野には疎いとして断り続ける。ついに「側役は主人と生死をともにする職であるが、これほどの危急切迫の場に追い込まれているというのに、命令を断るとはどんなつもりか」と長脇差で斬り捨てるばかりの剣幕でつめ寄られた。調所は「やむを得ません。引き受けます」と答えた。

重豪は三ヶ条の命令を出した。「10年間で50万両の積み立て金をつくること」「それ以外にも貯えること「古い借金の証文を取り返すこと」であった。それ以来、調所は猛烈な仕事人間となっていった。借金は250年返済とする、証文は商人たちの目の前で焼き捨てた。密貿易を含む積極財政を断行し、島津重豪の命令を完全に実現したのである。その結果、本人は首相ともいえる家老にまで出世するが、薩摩藩の世継ぎ問題で、島津斉彬が世継ぎになると元の木阿弥になるとして反対し、その結果、幕府から嫌疑を受けて急死するのである。

調所広郷が達成したみごとな財政再建で、薩摩藩は潤沢な資金を得た。それを思う存分使って、近代化を推し進めたのが、この雄藩を率いた島津斉彬西郷隆盛大久保利通らであった。明治維新の成功は薩摩、長州に功があるが、実はその源は、調所広郷の財政改革の成功だったのである。長州では村田清風が同じ役割を担っている。調所は最後は不幸な死に方をするが、日本の近代化に果たした業績は大きなものがあるのだ。そのことを知った。その大事業を行う決意が「やむを得ません。引き受けます」だった。

私はビジネスマン時代に、同じような境遇に陥ったことがある。会社の危機に当たり、再建を託されたのだが、誰もが失敗すると思ったし、私自身も処方箋はなく、展望もなく、やりきる自信はなかった。失敗を覚悟で正面突破に挑んでいったことがある。また二つ目の大学でも、思いがけず再建を担うことになった。ここでも根本改革を志向し、陣頭に立つはめになった。そういう役目は自分で選ぶのではない、天の配剤で巡ってくるのだ。それに捨て身で決死の覚悟をもって立ち向かうと難局が打開されることがあるのである。調所広郷という人物に共感を持った。


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