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「名言との対話」7月1日。児島惟謙「津田の起こしたことは許されないが、外国や政治の圧力に屈して法を曲げることは国としてあるまじきことだ」

児島 惟謙 (こじま これかた / こじま いけん 、 天保 8年 2月1日 〈 1837年 3月7日 〉- 1908年 〈 明治 41年〉 7月1日 )は、 日本 の 裁判官 ・ 政治家。「護法の神様」。

愛媛県宇和島市出身。長崎で坂本龍馬五代友厚と親交。1967年脱藩し京都で勤王派として活動。明治維新後の1870年に司法省に入省。名古屋、中崎の所長を経て、1883年大阪控訴院長。この時代に関西大学創立に力を貸し準創業者扱いで学内に胸像が建っている。

1891年に大審院院長(最高裁判所長官)に就任。この年、ロシア皇太子ニコライが、巡査の津田三蔵の襲撃で負傷する大津事件が勃発。院長の児島はこの案件を地裁でなく大審院で裁くこととした。

政府首脳の松方正義総理、青木周造外務大臣、元老の伊東博文らは、皇室への反逆罪の大逆罪で死刑にすべきだとの強い圧力を加えた。その数年後に日露戦争が始まる時期であり、外交的にもこれは重大な事件であった。明治天皇は京都に移動したニコライ皇太子を見舞い、帰国する神戸で見送るなどして、ロシアの感情をなだめている。

児島院長は罪刑法定主義をかざし、皇室に対する大逆罪には該当せず謀殺未遂罪での無期懲役を16日後に言い渡し、司法権の独立を護った。このことは近代国家としての日本を知らしめるものとなった。

一方の政府はどうしたか。青木周造外務大臣西郷従道内務大臣、山田顕義司法大臣らはこぞって、責任をとって辞職している。ロシアに対する誠意を見せたのだろう。この大事件は後に吉村昭が『ニコライ遭難』(新潮社)を書いている。

翌年に花札賭博に興じていたとして、児島大審院長以下判事6名が告発され、検事総長による懲戒裁判にかかる。現行犯ではなかったことから訴追は免れたが、1894年に児島は辞職することとなった。行政側の意趣返しとの説もあるが、真相はわからない。もともと児島は花札賭博に熱心だったようだ。児島はその後、貴族院議員などを歴任した。

司法官として歩んだ児島惟謙は、大阪時代も自由党大阪事件での政府の介入を排除したことで評価を高めたが、この大津事件の処理によって、不動の名声を獲得したのである。

立法、行政、司法の「三権分立」という建付けの民主主義のなかで、司法の独立は、日本の近代、現代において、常に問題が発生している。その都度、さまざまの事件や教訓が積み重なっている。

児島惟謙の「津田の起こしたことは許されないが、外国や政治の圧力に屈して法を曲げることは国としてあるまじきことだ」という判断は、司法の独立を護ったという意味で出色の仕事であったというべきだろう。児島惟謙は、「護法の神様」となった。
最近、思うことは、どの分野にも「神様」がいるということだ。憲政の神様・犬養毅、三味線引きの神様・豊沢団平、車両の神様・島安次郎、経営の神様・松下幸之助、落選の神様・片岡球子小説の神様志賀直哉、校正の神様・伊沢蘭奢、地震の神様・今村明恒、、、、。「童話の神様」「競馬の神様」「育児の神様」「ジャズドラムの神様」「ビリヤードの神様」「販売の神様」、、、、。日本は八百万の神様のいる国なのだ。


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