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「名言との対話」5月10日。二葉亭四迷「言文一致」

二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、1864年4月4日元治元年2月28日) - 1909年明治42年)5月10日)は、日本小説家翻訳家。享年46。

江戸市ヶ谷出身。漢学、フランス語、洋学を学ぶ。東京外国語学校露語科に進学するも中退。在校中の親友・太田黒重五郎は、後の小説『浮雲』のモデルである。芝浦製作所、九州水力発電などの創設にかかわった実業家で、音楽評論家として活躍した太田黒元雄の父である。

1886年坪内逍遥を訪問する。1887年に『当世書生気質』『小説神髄』などで名高い坪内逍遥の本名を使い小説『浮雲』を発表。この「はしがき」で二葉亭四迷を名乗る。「くたばってしまえ」をもじった筆名である。写実主義による描写と、日本初の言文一致体で大きな衝撃を与えた。またロシアのツルゲーネフ猟人日記』などの翻訳にあたった。

内閣官報局、陸軍大学校を経て、1899年に東京外国語学校ロシア語科の教授となる。1906年にはロシア滞在中に学んだエスペラント語で、入門書を出版している。

1904年からは大阪朝日新聞に入社。東京朝日で『其面影』『平凡』などの小説を連載する。1908年、朝日新聞特派員としてロシアに赴任。1909年、帰国途中のベンガル湾の船内で客死する。

日本における言文一致体を初めて世に問うたのが二葉亭四迷ということになっている。『余が言文一致の由来』という随筆を読んでみた。これは懺悔話で、文章が書けないからそうなったという話だった。文章が書けないので坪内逍遥先生に相談したら、圓朝の落語のように書くようにとの示唆を受ける。書いたらそのままでいいということになった。「です、ます」調の敬語を使わずに、「だ、である」調の東京弁の文章となった。次に書いた山田美妙は、逆に「です、ます」調での言文一致の文章を書いた。四迷は美文調は嫌いであり、こなれていない漢語を使わなかった。以上が言文一致体の日本初お目見えの実情だった。

もうひとつ『旅日記東海道線』という随筆も読んでみた。往路は鉄道の旅だ。ロシアの軍人と一緒になる。敦賀では「理想化にして実際家」と四迷が評価する後藤男(後藤新平男爵)に紹介される。「霜降の背広に黒の山高帽を冠り、鼻眼鏡かけた英姿颯爽の一丈夫」と活写している。大阪から神戸に出て復路は船旅で、朝日の村山社長、鳥居素川編集局長らの見送りを受ける。これは1908年の東京朝日新聞に書いたもので、言文一致体で面白く読むことができた。

私場合、若い時代に「だ、である」調で書くと、格式張って文章が必要以上に難しくなるという経験があった。漢語を使い過ぎるのだ。ある時、人に話しかけるように、「です、ます」調にすると、文章がスムーズに書けるようになった。著著の多くは「です、ます」調になっているはずだ。二葉亭四迷は江戸生まれの東京弁だから、生きのいい「だ、である」調が合っていたのだろう。

「見たとおりに書け」「話すように書け」とは、国語の先生によく言われたが、なかなか難しかった。見たとおりには書けるはずはない。見たものを順番や、構造や、関係を考えて書くほかはない。また「あのね」を冒頭に持ってくると書きやすいとか、いろいろな技術を身に着けてようやく文章が書けるようになるのである。

日本語の「言文一致」の始まりのエピソードは、懺悔の物語だったのが面白い。文章術に関する本は、毎年のように刊行されているし、名著も多い。しかし、皆が文章書けるかというとそうでもない。何か欠陥があるはずだ。そう思って『図で考えれば文章がうまくなる』(PHP)という図解文章を2005年に書いた。それを思いだした。

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