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優しい世界を創るには

優しい世界を創るにはどうしたらいいと思いますか?

みんなが優しくあればいいと思います。

みんなということは、自分も優しくあればいいと思います。

優しいとはどういうことですか?

優しいとは、相手も自分も、喜び・平和に繋がることだと思います。心がじんわりほわっとなる嬉しいことだと思います。相手(外側)の出来事に対して、否定や抵抗ではなく、穏やかに反応することだと思います。

そう言われても、なかなか難しいですよね。そうなんです。そんな簡単な事ではないのです。しかし、諦めないことです。僕らは、万物の霊長類の長(おさ)なのです。今日お友達に、動物脳(本能)の話を聴いてもらったら、人間は万物の霊長の長(おさ)って教えてもらいました。動物脳をもっているけど、人間が動物と違うのは、【万物の霊長類の長(おさ)の自覚】ということです。僕らは、気づいてる心と、考える心の2つを持ってます。気づいている心が万物の霊長類の長の霊性で、考える心が動物脳で、正体を分かった上で、自発的に区分けする必要があります。

動物脳(本能)=自我(エゴ)生存(生きる)という生理的欲求と、獲得(地位、名誉、お金を得るなど)するという社会的欲求を、怖れが基盤という太い軸をもってやっています。そして、無意識に密かな快楽を得るためにネガティブな事をやります。これを自我(エゴ)の甘い汁=秘密の報酬と言います。

これは真理(しんり)であり、正体です。

僕の主観で捉えた言葉と、本の言葉では伝わり方が変わってくるので、覚醒した立ち位置からのデヴィッドRホーキンズ氏「I<わたし>真実と主観性」の本の、大事な部分の一部ですが、文章を下に書いていきます。P387~

【Q:自我(エゴ)の秘密の報酬のほかに明け渡すものはありますか?】

A:心の幻想の正体を見抜き、心は本当は何も知らないということに気づいてください。これは謙虚さと呼ばれる姿勢で、謙虚さは、悟り、啓示、直感的な知っている状態への扉を開きます。心は意味を求めるがゆえに、堂々巡りに陥り、意味に対する勝手な解釈にしか行き着きません。「真実」においては、意味のあるものなど何もなく、認識すべき特徴などありません。万物はただ創造されたままに在るだけであり、それだけで完全で完璧です。万物はただ在るだけで、目的を果たしているのです。万物はその本質と潜在的可能性を結実させています。存在するものすべてに唯一、”求められていること”は、ただ、在る事です。一瞬一瞬の条件の下に定められた使命は、すでに完全に成就されています。それゆえ、今ある姿は、過去のすべての可能性を結実させたものです。万物は、あるべき姿のままに存在しています。本質が潜在的可能性を成就している様子を、それに対応する意識のレベルが観察しています。観察しているナノ秒間にも、変化しているものは何もありません。唯一変化しているのは、観察の視点です。変化とは、一連の知覚のプロセスを反映しているにすぎません。人生は、一連の静止画像にたとえることができますーーー子供の頃に見た紙芝居と同じです。すると、ひとつの謎が生まれます。動いているのは世界なのでしょうか、それとも心なのでしょうか?

【Q:では、不完全であることは不可能なのでしょうか?】

A:万物は、その絶対的な自己アイデンティティの中ではあるがままなのですが、知覚や立ち位置に偏向する自我(エゴ)の習性は、それを観察することをきわめて困難にしています。鉄板に付いたさびは、酸化過程を完璧に表現しています。湿気にさらされた鉄は、酸化鉄になります。ただ、それだけです。何かを”する”のではなく、ただそう”在る”だけです。一過性なのは、外見的な形だけです。真実は永遠です。<わたし>の目にはそれは明らかですが、個人的な自我(エゴ)である”わたし”には見えません。観察しているどの瞬間も、万物は常に完璧で完成しています。価値や意味は、心が投影する装飾であり、特定の属性や特徴への好みに基づいています。野性的で自然な感じのクリスマスツリーが好きな人は、まっすぐなものよりもねじ曲がったツリーを好むのと同じことです。

※へん‐こう〔‐カウ〕【偏向】[名](スル)1 考え方がかたよっていること。また、その傾向。「偏向した教育」「保守主義的偏向」

【Q:わたしたちは幻想を超越することができるのでしょうか?】

A:心にとっての現実はフィクション(幻想・仮構・虚構)です。それがわかれば、心は最高権威者としての支配力を失います。自我(エゴ)の目には、人生は、好きから嫌いへ、恐怖から束の間の快楽へと常に移り変わる万華鏡のように映ります。自我(エゴ)は過大評価している立ち位置に身の安全を求めようとしますが、成熟するにしたがって、信頼できる揺るぎない特性を内面に探るようになります。しかし、霊的な指示と情報がなければ、どこを頼りにすればよいかわからず、ただ実利的な価値があるだけの基本的なサバイバル術に舞い戻るのがオチです。

【Q:心を持たずにどのように生き残る(サバイブ)することができるのでしょうか?】

A:心には、”考える心”と”気づいている心”があります。後者の気づきは自律的で、人生の状況をすべて包含しています。また、考えたり、解明したりするのではなく、知っている状態を基盤にしています。言い換えれば、計算的ではなく、自発的かつ静かに機能しています。また、気づきは異なる作動原理を反映しており、よりグローバルで穏やかな反応を示します。つまり、全体像を認識したうえで、適切に応答します。気づいている心は、陳腐な立ち位置や価値判断に惑わされることも、狂信的行動に駆られることもありません。それは、穏やかで優しく、世の中のドラマに参加するよりは、観察することを好みます。気づいている心は、この世的な損益の観念に巻き込まれることはありません。このような世界とのつきあい方を、わたしたちは、”ゆったり構えた”とか、”達観した”スタイルと言います。自我(エゴ)の考える心が、「なんてひどい」と嘆いている状態を、気づきは人生の浮き沈みの一コマと見、結局はどれも変わらないことを理解しているのです。

【Q:それは受動的な姿勢はありませんか?】

A:自我(エゴ)にとって、平和は消極的で不活発に見えます。というのも、自我(エゴ)は支配したり、獲得したり、避けたりと、何かを”する”という観点から物事をとらえるからです。自我(エゴ)は高速道路をかけ抜け、制限速度をオーバーし、パトカーがいないかどうか警戒します。のろまなドライバーに苛立ち、呪いの言葉を吐きながら、背後にぴったりとくっつきます。そして、クラクションを鳴らし、カーブで追い越します。時間を打ち負かし、列に割り込みたいという衝動に駆られながら運転しているのです。前方にドライバーがいれば拳を振り上げ、恐ろしい復讐を誓います。こうした狼藉を働いている最中にも、仕事の戦略を練り、携帯電話を使い、ラジオを聞いています。反対に気づいている心は、交通の流れに乗り、前方に割り込んでくる気の毒な魂に気持ちよく場所を譲ります。気づきが持つゆとりある観点は、他者にも向けられます。

【Q:そんなゆったりと構えた姿勢は無益ではないでしょうか?】

A:こうした姿勢は、行為ではなく全体像に視点を置きます。自我(エゴ)はフォース[ネガティブ]に頼りますが、霊(スピリット)はパワー[ポジティブ]の影響を受けます。気づきは、長い目で見れば、あなたが何をしたかではなく、あなたが誰であるか、そしてあなたがどのように成長したのかが重要であることを知っています。一方は状況を過熱させ、一方は静めるのです。

【Q:では、世に言う成功とは何ですか?】

A:自我(エゴ)は、獲得や支配を成功と見なします。一方、気づいている心は、充足感、完了感、平穏、そして平和と愛の喜びに目を向けています。自我(エゴ)にとって、獲得すべきものは外側にありますが、霊は、存在そのものの常にある喜びを内側に見出します。それは、コンテント(内容/中身)や形とは無関係です。霊にとっては、雨の日も晴れの日も同じです。気づきは、形をとらえる代わりに、ただ特性を楽しみます。したがって、”ともにいる”ことを楽しみ、所有したり支配したりすることに興味がありません。気づきは、目的を原動力とせず、あらゆる状況を等しく楽しむ性質を重んじるのです。

【Q:思考活動もなしに、気づいている心はどのように情報を得るのですか?】

A:気づいている心は、論理よりも直感に頼ります。また、特定の立場を持たないので、変更したり撤回したりすることを厭わず、自己修正的です。ゆったりと構えた姿勢は、特定の視点にこだわらないので、いくらでも変化を受け入れます。立ち位置から自由であれば、「わたしが間違えていた」と簡単に言うことができます。自我(エゴ)のほとんどは、自分の”誤り”を認めるよりは死んだほうがいいのです。気づいている心は、全体像をとらえ、選択肢を有することに価値を置きます。したがって、より柔軟で適応性があります。自我(エゴ)は、詳細に焦点を置きますが、気づきは、全体性と本質を見ます。自我(エゴ)は排他的ですが、霊は包括的なのです。

約4ページ分の情報です。読んでいかがでしょうか?聴いたことのない、真理(しんり)の情報だと思います。理解を深めるには、何回も読む必要があると思います。この情報をふまえた上で、優しい世界を創るには、ということになります。


優しく出来ない時があったら、どうすればいいですか?

どうして優しく出来なかったのかを、自分の中で探究して、繰り返し繰り返し、優しくするにはどうすればいいかを、考えれたらいいですよね。答えは外側ではなく、自分の中にしかありません。

その優しく出来なかった時は、本当のあなたではない、自我(エゴ)のあなただと思います。自我(エゴ)のあなたが、無意識にどう反応したかを、素直に認めることがスタートでしょう。そして、そこにある信念体系や、感情を手放していく。繰り返し繰り返し、内観ですね。

自我(エゴ)を超越するの記事を是非活用してくださいね。

万物の霊長類の長(おさ)=ライトワーカーとして、優しい世界を創る=地球解放するために、できることをやっていきましょう。

無理なく無理なく喜びでやればできる!ティモンティひさのりより


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