映画:戦場のメリークリスマス

みんな題名くらいは知っているけど、実際に観たことがある人は少ない。

戦場のメリークリスマスも、そんな作品じゃないかと思う。

と言ったら、映画が好きな人には怒られそうだけれども、当世では、観たことないのが普通だろう。

そんな映画のリマスター上映があって、しかも、今後、この作品が映画館で掛かることはないらしいので、思いきって観に行って来た。

坂本龍一もデヴィット・ボウイも、名前こそ知っていたけど、動いているのを観るのは初めて。

恥じらいもなく、率直な感想を言ってしまえば、日本語の台詞の半分くらいは、何を言っているのか聞き取れなかった。

北野武のよく通る声はよいとして、他の出演者の台詞は、字幕や謡本なしで能楽を観ている感じ。

それが悪いという事はないけれども、も少し予習して観に行くべき古典的な映像作品なのだと思った。

そして、そういった言葉のハードルを抜きにしても、中々、どうやって観てよいのかは悩ましい筋書きであって、だからと言って詰まらないかと言えば、分からずとも美しく、やる方のないラストシーンが待っている、という具合なものだから、そこがまた、言葉を解さずに能楽を観ている様な感覚に近くって、ちょっと、自分が外国人になった様な、不思議な感覚に襲われる。

根底には、色々と社会的なメッセージ性が込められてある様子で、目をそらしたくなる様な現実を、まざまざと見せ付ける苛烈な意志に貫かれた画が続く。

ある種、観るものに耐える事を強いている。

そういうエンターテイメントが、今日、どのくらい求められているのかは分からないけれども、言葉にはならないもの、物語には乗せられないものが、映像に託されていて、画自体もまた目的ではなく手段に過ぎぬ、という妖しさが、僕らの理解を拒んでいる様にすら映った。

勿論、そんな意図の作品であったかは、知らない。

映画の不幸って、ストーリーがある事なんじゃないかな、とふと思う。

筋書きがある以上、それが追えないと観たことにならない。

少なくとも、きちんと視られた気がしない。

その点、音楽というのは、その語法に通じていなくとも感覚的に入って来て、しかも、運動法則を知らずとも、一節が万事という具合いで、人心を鷲掴みにしてしまう。

映像にも、そういう一瞬は大いにあって、音楽よりも鮮烈なくらいなのだけど、僕らは、それに満足出来ない。

映画館へ足を運ぶ者は、ドラマに取り憑かれている者と言ってもいいのかも分からない。


戦場のメリークリスマスは、坂本龍一の手による音楽が、映画の世界を飛び出して、よく知られたものとなっている。

それは、音楽が美しいからに決まっているとして、掴み所の難しい映像世界にあって、殆ど唯一、垣根のない存在としてあのメロディがあったからではないか、という気がしないでもなかった。

冷静に観て、映像と音楽が描くテイストは掛け離れており、場違いにすら思われた。

けれども、相容れないというよりは、激しく絡まりあっている。

音に寄り掛かって居所を得て、救われている。

それが果たして、作品の方なのか、観客の方なのか。

切り離す事など出来まいと思いつつ、自分は切り放されてしまっていたかも知れないな。


印象的なカットは、どこでしょう?

それは、きっと誰かの顔じゃあないか。

デヴィット・ボウイかも知れないし、坂本龍一かも分からないし、北野武だろう、という案配に。

私には、トム・コンティの顔が、鮮烈に焼き付いた。

彼の困惑した、しかし、凡てを確かに視た者の顔。

音楽が聴こえなくなるくらい眼が雄弁で、それは、結局、ストーリーがこちらに強いる印象であり結果なのだろうけど、この瞳の前には、ドラマの方こそ添え物じゃあないか。

言葉を解さずに能楽を観る様に、映画を観ればそう映る。

映画には映画の語法というものがあるから、それを解せば、戦場のメリークリスマスという作品は、全く違っているに相違ない。

けれども、文学の欠点は、言葉に頼らざるを得ない事だから、流儀を解さずに観る映画には、一節のメロディに心をかっさらわれる様な直観があって、案外、悪くもなさそうだ。


観終えて、パンフレットを一部買って帰って来た。

果たして、頁をめくる日が来るものか、甚だ怪しいのだけれども、表紙を観れば、また、ローレンスの顔が浮かぶに違いない。

それで十分じゃないか。

寧ろ、そちらの方が、鑑賞者にとっては本編なのだから。

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