CD:伝佐村河内守の交響曲第1番HIROSHIMA

最近、殆んどワンコイン(それも百円)で、アルバムを買うことが出来る様にまでなったので、重い腰を上げて、今世紀を代表する一大シンフォニーを聴いてみた。

まぁ、金返せ、なんて言う程の投資もしていないし、時間を返せと言う程、能率的にも生きていないから、聴いて損はなかったと思う。

平然、ブルックナーやマーラー、それにショスタコーヴィチの交響曲を全く聴かないので、こうした名だたる交響作家に列なる作品、との評価については、正直、よく分からないのだけれども、素人耳には、交響曲というよりは交響詩に近い、もっと言えば、映画付随音楽を一大音絵巻物に再編した様な、耳馴染みのよい音楽と聴こえた。

そういう音楽に、80分喜んで付き合えるのは、やっぱり、原作のファンだろうから、設定が揺らいだ後の破綻の速さも頷ける、ある意味、一貫して、とても正当に評価されて来た作品だ。

標題は、広島に取られているけれども、ペンデレツキの音楽がそうであった様に、余り、捉らわれずに聴いても差し支えない作品の様で、寧ろ、捉らわれない方が分りやすいかも知れない。

ブルックナー以降の交響作家というと、個人的には、ミャスコフスキーを少し聴くくらいで、他の作家の事はよく分からないし、そもそも、長大な音楽を聴くという事は、昨今の時間感覚からすれば、大変な浪費であり、正直、こちらの根気も持たないものだから、長大なシンフォニーやオペラは、ついつい敬遠してしまう。

時は(何時だって大半の社会はそうなのだけど)能率化推奨の社会、もっと、要領よく、手短に、解りやすくまとめなくちゃ受けなさそうなものだけれども、実際には、周到な仕掛けによって、この音楽は、一時、随分にヒットした。

それは、グレツキの悲歌のシンフォニー以来の快挙だったかも知れないけれども、現象としては、随分、倒錯してもいた。

実際、今日では、純然たる佐村河内守作品とはみなされておらず、実作者は新垣隆と目され、既に、取り上げられる機会も皆無となっている様だ。

正に、一世を風靡したシンフォニー。

ゲーム音楽やアニメーション映画音楽のオーケストラ演奏会というものが、定期的に開催されているのだから、こういう交響楽が支持される事自体は、寧ろ、時代の必然であったと思う。

そして、ちょっと作者が変更になったくらいで、すっかり廃れてしまうのも、洋楽の行儀作法に習ったものだ。

僕らが、ベートーヴェンの交響楽を聴く時に、ベートーヴェンという人格を、想像せずに聴く事は、殆んど不可能であるし、だからと言って、ダニー・ボーイの作者が不詳であるからといって、何の問題も起こらない。

音楽の正しい聴き方というものがあったとして、その作法が一通りなんて事はあり得ない。

千家にも、裏があり、表があり、武者小路あり、勿論、千家以外にも茶道の流派は幾つもある。

利休だけが偉い訳でもない。

ただ、世俗において、誰が力をもっているか、という影響力が、もっともらしく台頭しては、うらぶれて、また復活したり、滅んだり、歴史は誕生と死で語られやすいけれども、実際には、衰勢の綾がわやくちゃになって、拗れたものだ。

だから、一つの大義の下に絶賛された事で、相当数の人が、この作家に対して最初から拒絶感を抱いたのも、とっても自然な反応だったし(私も、反射的に拒絶した)、からくりが解明された後に、全員が一斉に引き上げた事も、自然な流れではあったのだけれども、何れ、また再評価される類いの音楽だろう、とも思えて来る。

その再評価というのは、作者も、この作品のかつて支持者も、思いも寄らない角度から、まるで宇宙人から見た感覚でなされる事になる筈だ。

実際、歴史の再評価なんてものは、死人にとっては、何時だって、そんな類いの価値じゃああるまいか。

まぁ、直接、利害のある関係者が没するまでは、蓋をした方がいい、という程度の封印が掛けられている。

その封印が解かれる程の魅力は、正直、この作品にはないものと、僕らは既に見定めている。

その論拠を、幾人もの専門家、研究者が突き付けてもいる様だ。

それでも、作品は、産み落とされたが最後、独立した生きものであるという事を忘れぬ事だ。

そして、社会を翻弄した設定もまた一つの作品に過ぎぬのが、関係者が全員死んだ後に、初めて語られる歴史の世界。

裏切られたなんて思う人が多ければ多かった程に、この作品の仕掛けは活きたものともなる。

そこまで引っ括めて、これはただの詐欺だったのか、一大風刺作品だったのか、はたまた、真に傑作だったか、ファッショナブルな駄作だったかは、少なくとも、僕らが旧世代になるまではお楽しみなのが、ちょっぴり残念な気持ちはある。

だから、ペンデレツキやグレツキを聴くように、新垣隆を聴けばよい、なんて言いはしないけど、一度眺めれば役目は果たす、そんなモニュメント的な作品だとは思う。

世の中には、膨大な数の音楽があって、人生には、蓄財を増やす機会は仮にあっても、寿命は縮むことこそあれ天命を伸ばす術はないのだから、時は減る一方だ。

それでも、繰り返し聴きたくなる音楽というものは、世間の評価などに左右される程、やわなものじゃない。

もっと、切実に自分の命に直結する時間の消費なのだから、誰もが、もっと感覚的に選び取っていくものだ。

そういう音楽として、この交響曲第一番を聴いている人がいるならば、その人が、一番、この音楽を分かっているに決まっている。

その神域を犯すことなどは、作者にだって許されるものじゃない。

捉われるべきは、何時だって、自分の命の方であるべきだ。

HIROSHIMAは、そんな事を再認させてくれる記念碑として、確かに私の人生に刻まれた様である。

得てして、観光地にある記念碑が、それ自体は何の面白みも伴わぬものでありながら、時を紐解いてみればとても意義のあるものであったと、後から知る事になる様に。

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