映画《君たちはどう生きるか》
映画《君たちはどう生きるか》を観てきた。
一言で言えば、お盆映画。
宣伝の手法からして、どこかこれまでの実績に頼った切売り感があって、作品自体にも、そんな気配は漂っていたかも知れない。
けれども、表題から受ける印象よりは、遥かにファンタジーをしていたから、そんなに抹香臭くもなくって、如何にも、夏に封切りされそうな雰囲気を湛えていた。
それは、夏休みのワクワク感というよりは、盆の中日の賑やかさの様なものがあって、何かよく実体のわからぬものと、違和感なく隣り合わせとなりながら、纏わりつく蒸し暑さの中に暮れていく感じ。
深読みせずに、表層をすっかりそのまま観るのがよいと思いつつ、それが、中々、上手く出来なくて、多くを見逃してしまった気がしている。
寧ろ、見逃したくらいで、留めておくのが正解なのかもわからない。
何事も暴かずに、仮装して一緒に踊るのが、盆のマナーである様に。
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同じ一人の作家でも、リアルタイムで現役の作家として作品を追うのと、既に故人となった人として作品を時系列的に追うのとでは、仮に入り口から出口までが全く一緒であったとしても、入り口までが随分違って来るし、出口はいよいよ、際限なく異なりそうなものがある。
況してや、人は、必ずしも、時系列的に作家に出会う訳ではない。
ある一つの作品との決定的な出会いから、それ以前を、或いは、それ以後を、手繰り寄せて行く。
その時、大切なのは、作家の創作の時系列よりも、受け手の鑑賞の時系列の方であるべきだ。
けれども、実際には、視聴体験は、しばしば、体系的に捉えられて、受け手の鑑賞の時系列は直ちに解体されて、作品の生年順へと整理され、作家論にまで昇華されることも少なくない。
しかも、その解体作業は、鑑賞者自ら整頓役を買って出る場合も多い。
それを良識と取るか、悪癖と取るかは、時代の気質もあろうし、個人の人生観の問題であり、明確な過ちこそあれ、正解なぞはないものだ。
そもそも、正解を求める心は、そんな問いを建ててはならぬし、建てようとも思うまい。
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近頃、生きている作家の作品にも、少しばかり触れる様になってみて、生きている人と故人には、どうにも違いがある様な気がしていたのだけれども、その差異は、全く、生きているか死んでるかの違いだな、という所に落ち着いた。
始発に帰った。
生き物としての性が、生きてる者に強く反応するらしい。
鑑賞者としての我も、どうにも、生きている者として、ある。
その事に、気が付いたらしかった。
人は、平生、その事に気が付かず去ぬものだ。
兎角、情報は、僕らに、その事に気が付く暇を与えたがらない。
情報というものは、あれは、どうにも、非生物なんじゃないかと思う。
人の口に乗ったものだからといって、息吹を与えられるものじゃない。
死ぬまで続くものは、死んだら終わる。
大体、真相は、死後に暴かれるものと、相場が決まってもいる。
かつて生きた者は、もう生き物じゃない。
どうにも、作家が生きている限り、鑑賞者が対峙させられるのは、作家であって、作品の方ではないらしい。
それが、一度、死ねば、今度は、作品の方に一方的に対峙させられて、作家を作品の彼方に拝むように仕組まれる。
生きてる人を拝むと、陸な事にならぬから、拝むるは死者と決めたのは、市井の知恵の様にも見える。
それを浅知恵と捨てるも、また、道理はあろうから、生きている作家を拝む人も、実際には少なくない。
ただ、死んで拝まれる事こそあれ、死者が生きてる我等を拝むる事だけはかなわない。
少なくとも、それが現世から現世を眺める掟である。
そんな、素朴な感覚に至って、《君たちはどう生きるか》を眺めていた。
眺める我の、生物としての不確かさだけが、確かになった。
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スタジオジブリ作品の、よい鑑賞者ではないので、劇場で観たことのある作品は、《風立ちぬ》と《君たちはどう生きるか》の二作品だけだ。
他は、何となくテレビで幾つか眺めて知っているくらいだけれども、好きな作品はと聞かれたら、《耳をすませば》と《ゲド戦記》という事にしている。
どちらも、監督は、宮崎駿さんではないらしい。
《風立ちぬ》の随分あとに、テレビで初めて《もののけ姫》を見た時、面白いと思うとともに、正直、少し気持ち悪い画だなと思った。
この人の作品は、観終わった後に陰鬱な気分に襲われる様に出来ている。
それは、《ナウシカ》《ラピュタ》《トトロ》でも変わらない。
大団円を退ける。
その根底にあるものが、《君たちはどう生きるか》に一番端的に表れている、そんな印象が強かった。
こちらを入り口に、宮崎駿を観る人には、一層、明瞭に、遥かに明け透けに、作家のなりがたち現れるに違いない気がした。
そして、それは、時系列で、作品を追わされた人には、きっと見えない景色に相違ない。
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同じ時代の空気を吸うという事。
その体験のある人は、後から来た人には分からない何かが、世の中にはあると信じている。
全く、その通りという気がした。
僕らには、同時代は、呼吸をするので手一杯という具合にしか体感出来ぬ様になっている。
その今様を画に捉える。
作家は晩年、そういう仕事が、心底、嫌になる、らしい。
寧ろ、際限なく今日が引き延ばされて、終いには、全て飲み干されてしまう。
その手応えをひたすら写生したくなる、かは知らない。
ただ、そんな画と映ったな。
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