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中世の三重県①

権門体制論
権門体制とはみなさんは、権門体制という言葉はご存知だろうか。たぶん多くの方は、ご存知ではないだろうが、歴史に興味の有る方ならもしかしたら知っているかもしれない。
以下に説明を引用させてもらう。
権門体制論
黒田俊雄氏が提唱。中世国家の特徴として、武家・公家・寺社の諸権門が封建領主として、相互に権限を分掌し、補完しあっていたおり、荘園公領制を通じて農民を支配していた。
      『新版 日本史辞典』(角川書店)
少し小難しく感じるかもしれないが、簡単に言うと
中世の日本では、武家・公家・寺や神社がそれぞれに荘園(領地)を持っていて国家権力を分割して保持していた。
という感じになる。今では、考えづらいと思うが中世の日本に於いては統一した国家というのは存在せずにそれぞれの勢力が独自の領域を持ちそれぞれ半独立的な存在であったのだ。

三重県の権門勢力
今まで説明した権門体制について、身近に感じることは難しいのが大半であろうが私が住む三重県にはかつて強大な権門勢力が存在していた。伊勢神宮である。
伊勢神宮は、古代においては国による管理がなされていたが律令制度の崩壊に従い荘園を持つようになり次第に権門体制化していったのである。三重県内においては、神郡といわれる三重・朝明・員弁などの北部三重、多気・飯野・飯高の南部三重に渡る広大な荘園を保持し、また政所を言われる政治機構を持ち、それを動かすための軍事組織をもつなど一大勢力なのであった。
今の常識からすれば、考えづらいかもしれないが伊勢神宮は大変大きな力を持った組織であったのである。

権門勢力伊勢神宮の最後
権門体制が崩壊するのは、多くは南北朝時代である。これは、多くの権門勢力に共通することであるが、この時代に多くの荘園が失われて急速に力をなくしていくのである。一番の理由が、武士による押領である。神宮の場合は、一番大きな要因になったと思われるのは、北畠氏による押領である。そこに至るまでにはいろいろな経緯をみることをできるが今回は省略することにする。

最後に
多くの人は、中世というものにピンと来ない人が多いかもしれない。しかし、調べてみると意外と身近に中世の面白さを感じる事ができる。三重在住の私ならば、伊勢神宮がある。伊勢神宮は、少し大きすぎるかもしれないが中世に繋がるものはかならずあるはずだ。少し興味でも興味が湧いた人はすこし、探してみると面白いかもしれない。
キーワードとしては、寺社仏閣を手がかりとしてみるとよいと思う。


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