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「きっかわつねまさ」と読みます。
江戸時代の最後、幕末のあたりに生きた
マニアックな大名(領主)の一人です。

長州藩領の東、岩国の領主!
今で言えば山口県の東の端、
広島県に近い街ですね。
U字型のアーチの「錦帯橋」も有名。

藩祖である「吉川広家」は、
司馬遼太郎さんが『関ヶ原』などの
小説で取り上げているので、全国的にも
まだ知名度があるのですけれども、

幕末の「吉川経幹」については
岩国以外では知名度は高くないでしょう。
逆に知ってたら、凄い!

(なお吉川広家については、
先日記事を書いてみましたので、
下部のリンクからぜひ)

…この吉川経幹、毛利家の長州藩を
滅亡から救う、という活躍をした人。

本記事では、
吉川経幹について書いてみます。

1829年に生まれ、1867年に死んだ。
1867年と言えば「大政奉還」の年。
まさに江戸時代の末「幕末」の人でした。

…江戸時代の岩国と長州藩との関係は、
少しややこしい構成になっています。
説明しましょう。

長州藩は毛利家。毛利一族。
岩国は、吉川家。吉川一族。


毛利元就の長男が毛利隆元で、
次男が吉川元春(三男は小早川隆景)。
つまり、もともとは一族、兄弟でした。

しかし『関ヶ原の戦い』の際に、
毛利家は「西軍」の総大将になります。
家康の敵だったんですね。

吉川広家は「東軍」に内通。
毛利家は「お取り潰し」になるところを、
吉川広家のとりなしで救われました。
毛利家は中国地方に広がる領土を削られ、
現在の山口県だけに「押し込められる」。

…でも、内心は複雑ですよね。

毛利家の側から見れば、
百万石くらいあった「大大名」だったのに、
約三十万石に無理やり縮められた。
山口、広島、岡山、島根、鳥取が
「山口だけ」になった
ような感じです。

お取り潰しの危機から救ってくれた吉川家に
感謝はするものの、毛利家中では
不満もあったことでしょう。
「戦っていたら勝てたんじゃないか」と。
「吉川の奴らは、幕府の手先か」と。

吉川家は幕府から、今の山口県の東端、
岩国のあたりに領地をもらいます。
長州藩の毛利家とは「別」になり、
毛利家を支える領主になる…。

「岩国の吉川? 毛利の家臣ですよ?」
本家の毛利ではそんな認識。その一方、
「岩国の吉川? 毛利とは別格です」
江戸幕府ではそういう認識でした。

毛利家の長州藩から見れば
岩国は「大名ではない(毛利の家臣だから)」。

でも江戸幕府は岩国を、吉川氏を、
三万石の外様大名「格」として扱った。
幕府からすれば毛利家は元「敵」なので
話しづらいけど、吉川家は窓口、話しやすい。

いわば長州藩と幕府の間の仲介人。
極めて変則的で、例外扱いの領地なのです。
これが何と、江戸時代の初期から幕末、
二百年以上もずっと続いていく…。
(途中で「六万石」を公称)

ですので、厳密には「岩国藩」じゃない。

「岩国の領主」に過ぎないんです。
本家の長州藩との関係も微妙で疎遠。
むしろ幕府側に顔が利く。仲がいい。

そんな複雑な岩国領の第12代領主として
幕末に生まれたのが、吉川経幹でした。

この頃の長州藩の藩主は
毛利敬親(もうりたかちか)です。
「そうせい侯」とも言われており、
佐幕派にも討幕派にも
「うん、そうせい」と言う人。
家臣の意見には異を唱えない人でした。

…とはいえ、変転目まぐるしい
幕末において、一歩舵取りを間違えると
藩そのものが滅んでしまいますよね。
事実、長州藩は滅亡の危機に陥る…。

それが1864年の「第一次長州征討」
「蛤御門の変(禁門の変)」という
京都での暴発、クーデター(の失敗)の責めを
幕府から受け、滅ぼされそうになる。

動員されたのは35藩。約15万人の大軍勢。
日本各地を敵に回す。装備も旧式。
長州藩だけでは太刀打ちできない!
戦ったら必ず負ける…!

ここで吉川経幹、主家の毛利家を救うべく、
征討軍を相手に必死に交渉を行います。

交渉相手は、薩摩藩の大島吉之助。
…のちの「西郷隆盛」です。
薩摩の西郷としても、
ここで長州藩を滅亡させてしまって、
幕府が有利になられちゃあ困る…。

岩国の経幹、薩摩の西郷!

二人が戦いを避けるべく会談します。
後に「江戸を火の海にするのを
避けるために落としどころを探った
勝海舟と西郷隆盛との会談」の図式と同じ。

その結果、禁門の変で上京した
三家老、四参謀を処刑し、
長州藩にかくまわれていた
貴族たちを追放する。

そんな降伏条件で開戦は回避されました。

…もし、吉川経幹、岩国の領主という
「毛利家にも幕府にも顔が利く」立場の人が
いなかったら、どうなっていたか?

交渉の余地なし、話が通じない、そのうち
長州藩でも過激派が暴発、開戦、
1864年に「長州藩滅亡」…。
その後の歴史が変わっていたはずです。

1600年の「関ヶ原の戦い」の時、
毛利家の存続に力を尽くした
ご先祖様の吉川広家と同じような働きを、
吉川経幹は成し遂げたのです。

…なお、その後の歴史の流れは、

◆高杉晋作たちによる藩内クーデター
◆薩長同盟の密約成立
◆第二次長州征討(今度は戦って勝利)
◆大政奉還
◆鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争
◆明治新政府、いわゆる「明治維新」成立


と進んでいきます。

ただ、吉川経幹自身は明治の新時代に
活躍することはありませんでした。
1867年、大政奉還の年に死去。享年37歳。

『毛利家を第一次長州征討の激動から守り、
躍進への道をつくってくれた』。
この経幹の功績を誰よりも認めていたのが、
本家の毛利敬親でした。彼は指示を出す。

「経幹が亡くなったことを隠せ!」

ゆえに明治新政府は、経幹の死去を
知らなかった。そのため1868年、
経幹を「城主格の諸侯」として
公に認めることになりました。

長い間、江戸時代を通して
ずっと吉川氏が抱き続けていた夢、
岩国藩六万石の『藩主・大名』になった。
この夢がかなえられたんです。
すでに実は亡くなっていた経幹が、
藩主として世に認められた。

その上で、経幹は
長男に家督を譲って隠居したとされて、
三か月後に死去が発表されました。

1871年、廃藩置県。
岩国藩は「岩国県」となります。
その後「山口県」に編入される…。

最後にまとめます。

本記事では、幕末の毛利家を救った男、
吉川経幹について書いてみました。

「神か仏か岩国様は 扇子一つで槍の中」

征討軍の敵がひしめく中で、
丸腰で大胆にも乗り込んで
西郷たちと交渉した経幹のことを、
人々は歌にして、後世に残しました。

江戸時代半ば、1673年に
三代目岩国領主の吉川広嘉によって
錦川に架けられた「錦帯橋」は、
五連続の木造アーチ橋。

経幹は、自らの命を省みぬ交渉によって
無益な内戦、第一次長州征討を回避させ、
次の時代へと続く歴史へと
「橋を架けて」いったのでした。


※岩国については、こちらの記事もぜひ↓

※経幹のご先祖、吉川広家については
こちらの記事をどうぞ↓

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