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オーストリア、という国があります。
何を思い浮かべるでしょうか?

ヨーロッパの中央から東のあたり。
永世中立国。
ウィーン。合唱団。モーツァルト。
ザッハトルテが美味しい…。

そんなイメージが
あるのかもしれませんが、
実はこの国、昔は今より
はるかに大きい欧州の大国でした。
「ハプスブルク家」の支配の下で…。

本記事では、オーストリアと
ハプスブルク家のお話を、
マリア・テレジアを中心に書きます。

歴史や地理を学んでいますと、
「オーストラリア」と
「オーストリア」はなぜ
紛らしい名前なんですか?

聞かれることがあります。

英語表記は、確かに似ています。
Austria(オーストリア)
Australia(オーストラリア)。
ただ、オーストラリアのほうが
イギリスの元植民地であるのに対し、
オーストリアはドイツ語圏。

ドイツ語では、こう表記されます。
Republik Österreich。
Republikは「共和国」。
Österreichは「エスターライヒ」
そう、オーストリアの
本当の名前はエスターライヒです。

これは、東の国、という意味。
エスターは「東」、ライヒは「国」。
これに対してオーストラリアは
「南」の大陸。
テラ・アウストラリス・インコグニタ
(未知の南方大陸)から来た名前。

全然違うんですよ。東と南。
英語にして、かつカタカナ英語にすると
かなり似ていますけれども。

文字通り、このオーストリアは
「ヨーロッパの東のあたりの国」として
とても大きな勢力を保っていました。
特に18世紀、フランス革命より前の頃。
革命が起きる前ですから、各地で
国王の一族や貴族が政治を動かしている。

オーストリアにいた一族が、
ハプスブルク・ロートリンゲン家です。
人呼んで「ハプスブルク帝国」
現在の国名で言えば、
オーストリア、ハンガリーに
チェコ、スロヴァキアあたりにまたがる。
そのど真ん中にあったのがウィーン。
モーツァルトも訪れた。

ただハプスブルク家は、
知名度はあるものの
わかりづらいところがあります。
ヨーロッパの各地に
分散して、活動範囲が広かったから。
婚姻政策で各地の有力者と
結びつきをもっていた
のです。

その先祖は、10世紀にまでさかのぼる。

もともとはライン川の上流、
今で言うとドイツとフランスとスイスの
国境の近くのあたりの
「アルザス地方」にいた一族でした。

10世紀、神聖ローマ帝国の初代皇帝、
オットー一世に領地を没収され、
スイスに移住。
その時にハビヒツブルク城という
城を建て、そこに住む。
これが後にハプスブルク城と呼ばれ、
一族の名前になりました。

武力で勢力を拡大したのではない。
婚姻政策、政略結婚で
じわじわと根を広げていく…。

日本史で言えば、藤原氏のような感じ。

16世紀、カール五世という
ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝は、
スペイン王も兼ねており、
カルロス一世、とも呼ばれていました。
彼が、弟にオーストリアのあたりを、
息子にスペインのあたりを相続させ、
スペイン系とオーストリア系とに
分かれていくことになります。
(なおスペイン系は1700年頃に断絶、
フランスのブルボン家に代わります)

この頃、ヨーロッパは
「宗教改革」とそれに続く
「三十年戦争」でしっちゃかめっちゃか。
特に三十年戦争後、1648年の
ウェストファリア条約で
ハプスブルク家は大打撃を受けた。

なぜか?

この条約によって
カトリックとプロテスタントが
同じ権利を得ると認められ、
それぞれの地域、領邦の領主が
どちらかを決めることになったから。
「教皇」や「神聖ローマ帝国皇帝」
といった、領邦の枠を超えた
大きなまとめる存在が否定された
んです。

それまでハプスブルク家は
「神聖ローマ帝国の皇帝」という
地位を活用して、帝国内をまとめていた。
それができなくなる。
帝国内の各地域、領邦に
口出しがしにくくなる…。


ゆえにここから、オーストリアの
ハプスブルク家は西のドイツ方面ではなく
東欧方面に力を伸ばすことになります。

ちょうど幸いなことに
東欧方面のオスマン帝国が
弱体化していました。
1699年、カルロヴィッツ条約により
「ハンガリー」を奪還!

その勢力をぐんと伸ばしました。

しかし、好事魔多し、とも言いまして。

1740年、カール六世が
後継の男子を持たぬまま死去します。
長女が後を継ぎました。
これがマリア・テレジアという女性。

…これに待ったをかけた者がいる。
隣のプロイセン、ホーエンツォレルン家の
フリードリヒ二世です。万能の天才。

「女性がハプスブルク家を継ぐのは
おかしいんじゃないか?」

各国を味方につけ、シュレジエン地方という
今のポーランドの南西部あたりに侵攻。
オーストリア軍に勝利するのでした。
シュレジエン地方を奪われた。
世に言う「オーストリア継承戦争」です。

マリア・テレジア、この即位の時には
第四子を妊娠中でした。

(ちなみに最終的に
彼女は16人の子どもを産んでいます。
成人せずに亡くなった子どももいます)

◆1737年:第一子:夭折
◆1738年:第二子
◆1740年:第三子:夭折
◆1741年:第四子:ヨーゼフ二世:皇帝に即位
◆1742年:第五子
◆1743年:第六子
◆1745年:第七子:16歳で死去
◆1746年:第八子
◆1747年:第九子
◆1748年:第十子:すぐ死去
◆1750年:第十一子:12歳で死去
◆1751年:第十二子:16歳で死去
◆1752年:第十三子
◆1754年:第十四子
◆1755年:第十五子:マリー・アントワネット
◆1756年:第十六子

…プロイセンの襲撃に
怒髪天を衝いたマリア・テレジアは
後に鬼手を繰り出します。
長年敵対していたブルボン朝の
フランスと手を組んで
プロイセンに逆襲するのです。
1756年「七年戦争」の勃発!

フランスとオーストリア、つまり
ブルボン家とハプスブルク家は
約250年間も敵対していた。宿敵同士。
それが手を結ぶ!

「外交革命」とも呼ばれました。

オーストリアは隣のプロイセンが怖い。
フランスもイギリスと敵対している。
共通の敵は味方!
イギリスとフランスは
世界各地に植民地を持っていたので、
戦火は各地に飛び火しました。

…しかしプロイセンは強かった。

オーストリアは勝つことができない。
1763年に、終戦しました。

ただ、この戦争で無理をしたイギリスは
アメリカ大陸の植民地に課税する。
これが後にアメリカ独立につながる。
フランスも国民に重税を課して、
後のフランス革命へとつながる…。

ハプスブルク家の相続争いが
国際戦争を勃発させ、その後の
世界史を変えていくのです。

最後にまとめます。

本記事ではハプスブルク家に
ついて書きました。

『怖い絵』シリーズで有名な
中野京子さんは、この一族の
本を出しています。

◆『名画で読み解く ハプスブルク家
12の物語 (光文社新書 366)』
合わせてぜひどうぞ!

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