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「三国志」の一番乗り ~鳥見桐人の漫画断面図6~

いったい、いつから並んでいたのだろう。

空腹を抱えて、人気のラーメン屋を訪れた時のことである。その日の行列は、いささか度が過ぎていた。ずらりと並んだ人、人、人。何人いるのか。11時半開店。とすれば、列の一番前の人は、早朝にはこの店の前にいたのではないか。

有名な遊園地の入場や、ゲームの発売日には、徹夜して並ぶ人も多い。俺は並ぶのが嫌いなので、どんな場面であっても「前日から徹夜で並ぶ」という発想は理解を超えていた。しかし、ニュースでインタビューされる一番乗りの人の顔を見ると、穏やかな決意がにじんでいる。そのような顔は、嫌いではない。

「いつから並んでいるんですか?」
「前日の午後5時からです」(ドヤ顔で)

…先鋒は武人の名誉。「一番乗り」は、この現代のホビーファイターやグルメファイターたちにとっても、名誉なのだ。

列が動き出す。開店したらしい。先頭は今頃店に入り、食券を買って椅子に座っているのだろう。その背後には、何十人もの空腹の戦士たちが、「空席待ち」という長期戦を戦っている。すでにこの店の行列に並ぶ気はなくなっていたが、俺の腹の虫は「ラーメンを食え!」とせっつく。食べるか、ラーメン。「てなもん屋」で。

俺の旧友は、漫画喫茶の店長だが、ラーメン通でもある。確かランチには、ラーメンセットがあったはず。ここほどではないが美味かった記憶がある。これは転身、退却にあらず。もう少し列が短い別の日に、この店のラーメンを食べるとしよう。漫画喫茶へと急ぐ俺の脳裏には、ある漫画のワンシーンが思い浮かんでいた。

「甘寧 一番乗り」のシーンである。

甘寧。かんねい。三国志の時代の、呉という国の武人である。横山光輝さんの「三国志」には、この甘寧が大活躍するシーンがある。相手は曹操の国、魏である。城攻めだ。

甘寧は敵の城壁を上ると、大声で言った!

「甘寧 一番乗り」

…横山三国志は、三国志演義を下敷きとしており、蜀の劉備が主人公扱いされている。劉備のメインの敵である魏に比べて、どちらかというと呉は脇役。しかも周瑜(しゅうゆ)に代表される知略の士がクローズアップされ、武人はあまり出てこない。その中において、甘寧は異彩を放っている。

「蜀の関羽・張飛・趙雲、魏の張遼や夏侯惇だけが豪傑じゃない! 我こそは、呉の甘寧なり!」

と、己の存在をアピールしているかのよう。その自己顕示欲の象徴が、「甘寧 一番乗り」のシーンだ。

単行本で60巻にも及ぶ大長編漫画。中盤の「赤壁の戦い」と、終盤の「五丈原の戦い」をクライマックスとすれば、この甘寧が活躍するのはその中間。中だるみしそうなこの期間、しかも劉備の蜀ではなく、呉と魏の戦い。

ここで野球漫画を思い浮かべてもらいたい。主人公のいるチームと強敵チームとの戦いは、読者の印象に残りやすい。しかし「敵チーム同士の戦い」は、印象に残りにくいものだ。そりゃそうだ、脇役同士だから。逆に言えば、この敵同士の戦いをどう描くかによって、漫画家の力量が見える。横山光輝さんは、この「甘寧 一番乗り」を描くことにより、己の力量をさりげなく顕示したように思う。

…漫画喫茶「てなもん屋」に着いた。当然ながら、行列はない。

まずは漫画を読みたかった。俺は店長に言った。

「甘寧の一番乗りって、何巻だったっけ?」
「37巻だ」

長い間のつきあいだ。このやり取りで事足りる。俺は本を受け取ると、ページを開いた。そうそう、ここだ。

それまで普通に剣で戦っていたはずの甘寧が、なぜかこのシーンでは鉄球で戦う。しかも両手で振り回している。鉄球が唸りをあげて回っている。

足は城壁。その足元には、敵の兵士が横たわっている。積み上げられた石は、城壁に押し寄せる敵に向かって落とすためのものか。背景は白いが、この鉄球が凄まじいほどの勢いでぶん回っているため、少しも余白を感じさせない。一騎打ちをさせやすい野戦より、城内での戦いは絵面的に地味なものになりがちだが、このシーンは、もう派手派手だ。

ちなみに、この「甘寧一番乗り」のシーンは、ネット上でも大好評。「このように叫んで一番に帰れば、誰も残業しなくなるだろう」とか、このセリフを書いたTシャツが販売されている、とか、どこまで人口に膾炙しているのか、空恐ろしくなるほど。

何千年もの時空を超えて、甘寧は俺たちに問いかける。「お前は、一番乗りをしているのか?」と。「まさか、臆しているのではあるまいな?」と。このたった一つのコマで俺たちの心を鷲掴みにする、横山光輝さんには脱帽して敬礼だ。

顔を上げると、店長の奴がスタッフ控室を指さしている。どうやら語りたいらしい。この俺との一騎打ちをご所望か。

「…で、なんでこのシーンを読みたくなったんだ?」
「駅前のラーメン屋がすごい行列だった」

店長はふうっと一息吐くと、椅子に座った。俺も座る。

「なあ、桐人。うまいラーメンってのはな。並ばせるラーメンじゃない。唸らせるラーメンだ」

俺に向き直ると、奴は横山三国志について語り出した。

「このコマを見ろ。芸術的ですらある。鉄球。城壁。敵兵の死体。戦場の空気が、これ以上味わえるコマがあるか。しかもこの後には、敵将を一発で仕留めるシーンまである。強い。かなわない。そう読者に思わせる。このコマ割りと展開のスピード感こそが、横山三国志の真骨頂」

ここで一息つく。奴は続けた。

「初期の頃は、少年層をメイン読者に想定していたのか、やり過ぎの演出が目立っていた」

「張飛がときどきデカすぎる、とかな」

「そう。逆に終盤に入ると、ハチャメチャなシーンは鳴りを潜めて、淡々と知恵比べを描く描写が増えてくる。五丈原の戦いは、軍師同士の戦いだから当たり前だが…。乱から治へ。動から静へ。武から知へ。全体の流れの中で、この37巻は、そのどちらの醍醐味も味わえる中間地点。だからこそ甘寧が光り輝く。序盤の呂布のような圧倒的な強さを、読者は無意識に求めている。そこにきてこの鉄球が唸る。読者も唸る。たまらんよ」

俺の腹がぐうと鳴った。そうそう、ラーメンを食べに来たんだっけ。

「おい、ラーメンセットを食いたいんだが…」
「ない」

その返答に、俺は耳を疑った。奴は続ける。

「唸らせるラーメンには、まだ届かないんだ。いま、スープを改良中。納得できる味ができるまで、メニューからいったん外している」

おいおい、漫画喫茶の店長が、頑固なラーメン屋に早変わりかよ。というか、もう俺の腹はラーメン以外には考えられないんだが…。

その俺の心中を察したのか、奴はにやりと笑った。

「サッポロ一番なら、あるぞ」

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いかがでしたでしょうか。

横山光輝さんの「三国志」より、本当にワンシーン、というよりワンコマ、「甘寧 一番乗り」の部分だけを、切り取って紹介しました。

さすがに今回は「登場人物」と名前を伏せて書くと、何が何やらわからなくなるので、甘寧という名前を出して紹介しました。

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