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「光栄ある孤立」の盛衰 ~パックス・ブリタニカの外交~

19世紀のイギリスの外交、その変遷!
そこは「歴史の教訓」の宝庫とも言えます。

世に名高い「大英帝国」。
グレートブリテンの栄光、すなわち
「パックス・ブリタニカ」
と呼ばれる世界が出来上がっていきました。

…21世紀に生きる私たちは、
20世紀の「第一次世界大戦」によって
この世界秩序が崩壊し、
「第二次世界大戦」後には多くの国が独立、
世界が変わったことを知っています。

ただ、だからこそ、ではありませんが、
大英帝国がどんな歴史を歩んできたのか、
概観だけでも知っておいても良い。

今では「英語」が世界で使われています。
「洋服」が世界で着られ、
「パンと紅茶と洋食」が食卓に並ぶ。
元々の文化に無いクリスマスのイベントが
世界各地で行われているのも、
イギリスをはじめとした「欧米列強」が
19世紀にどれだけ無双してきたかの証左…。

本記事では、この大英帝国の19世紀の外交を、
私なりに取捨選択して書いてみます。


フランスの英雄「ナポレオン」から始めましょう。
ナポレオンは、1804年に皇帝に即位。
対抗したのはイギリスの「小ピット」たち。
「対仏大同盟」というフランス包囲網を作り、
ナポレオンの欧州統一を防ぎます。

じきにナポレオンは没落。
1814年に「ウィーン会議」という
欧州のナポレオン後の秩序を決める会議が
開かれることになりました。

(「会議は踊る、されど進まず」と揶揄され、
議事が進まない間にナポレオンが
エルバ島から脱出したりしましたが…)

この会議にイギリス代表として出ていたのが
「カースルレー伯爵」です。

「フランスが強くなったら困る!」と、
四国同盟、後に王政復古したフランスも加わった
五国同盟という枠組みを作ります。
これぞ『ウィーン体制』
…ただ、ウィーンはオーストリアです。
そこの外務大臣、メッテルニヒという人が主導。

イギリスは、面白くない。

あまり大陸のことを首を突っ込み過ぎて
争いに巻き込まれるのも嫌だな…。
1822年、イギリスは早々に五国同盟から離脱、
大陸諸国から距離を取るようになりました。

この年、カースルレーが自殺する。

彼はウィーン会議に出ていたこともあり、
五国同盟の擁護派、とも言われていた。
心労が積み重なっていたんでしょう。

このカースルレーと「犬猿の仲」と
言われていたのが、カニングという男です。
1809年にはカースルレーと
ガチでリアルに「決闘」までして、怪我をして、
お互いに大臣を辞めさせられたりしたこともある。

彼の頃に英国の「自由主義」が発展します。
欧州の大陸の状況に深入りせず、
欧州外の植民地をどんどん広げる方針を取る。
カニングは「カニング派」を結成、
その一味は人材の宝庫だ、と言われました。

そこで腕を磨いたのが「パーマストン子爵」
彼の外交は「パーマストン外交」とも呼ばれる。

一言で言えば、

◆欧州列強とは会議で「勢力均衡」を図る
◆東欧やアジアには砲艦で「開国」を迫る

「欧州の外では弁慶、内では地蔵」的な外交。
そう、日本の江戸時代の末、
幕末に開国を迫ってきた頃の英国の外交は、
このパーマストンが行っていたのです。

◇1831年~ ベルギー独立支援
◇1840年~ 中国とアヘン戦争
◇1853年~ クリミア戦争でロシアに対抗
◇1857年~ インド大反乱を鎮圧


特に1840年の「アヘン戦争」は、
日本に物凄い衝撃を与えた。
あの強い中国が、イギリスに負けた…!?
その危機感が「尊王攘夷」の嵐になり、
江戸幕府が倒れる原因の一つにもなりました。

…ただ、さすがにアヘン戦争開戦については
イギリス国内でも反対が多かった。

「中国側に正義がある。
これは不義にして非道の戦争である!」

そう演説して戦争に反対した野党議員。
パーマストンに対抗したこの男こそ、
当時30歳の「グラッドストン」でした。

投票の結果、開戦賛成(政府支持)は271票、
反対は262票、わずか九票差でイギリスは
アヘン戦争へと突入することになります。

1865年、首相在任中にパーマストン、病死。

この頃、プロイセン(ドイツ)に出てきたのが、
「鉄血宰相」ビスマルク
彼はフランスのナポレオン三世を捕らえて、
1871年に「ドイツ帝国」を作り上げます。

…パーマストン亡き後、英国はどうしたのか?
グラッドストンと「ディズレーリ」という人が
交互に政権を取り、対照的な政治を行います。
いわゆる「二大政党制」ですね。

◆グラッドストン:自由党
◆ディズレーリ:保守党


グラッドストンは富裕な貿易商人の出自。
まさにエリート、理想家です。
対するディズレーリは、成り上がり。
破産して、小説を書いてお金を稼いで、
四回も落選しながら這い上がってきた苦労人。

このディズレーリが、
1875年に「スエズ運河」を買収し、
1877年に女王を「インド皇帝」とする
インド帝国を成立させていく…。
パーマストンが「パックス・ブリタニカ」の
土台を固めたとするならば、
ディズレーリはそれを完成させた、と言える。

…ただ、物事は完成すると同時に、
崩壊へ向かうのが歴史の常です。

1890年、フランス孤立化政策のために
イギリスに好意的だったビスマルクが、辞任。
新帝「ヴィルヘルム二世」が新航路政策と称し、
イギリスにケンカを売ってくる。

ちょうど同年、国内のフロンティアを消滅させた
アメリカ合衆国が、太平洋を越えて
アジアへと手を伸ばしてくる…。

新興国のドイツとアメリカの強烈な追い上げ!

…ついにイギリスも「光栄ある孤立」を
保っている余裕が無くなってきます。
そこで、東アジアの新興国に、目を付けた。

1902年「日英同盟」締結!

1904年に英仏協商、1907年に英露協商を結ぶ。
ドイツを仮想敵国にした「三国協商」です。
この七年後、1914年に第一次世界大戦が勃発。
ウィーン会議開催から、ちょうど百年後でした。

最後にまとめます。

本記事は、約百年の大英帝国の外交に
スポットを当てて、書いてみました。

小ピット、カースルレーとカニング。
パーマストン外交。
グラッドストンとディズレーリ…。


1850年、パーマストンは、こう演説しました。

『古のローマ市民が
「私はローマ市民である」と言えば
侮辱を受けずにすんだように、
イギリス臣民も、たとえどの地にいようとも、
全世界を見渡す目と強い腕によって
不正と災厄から護られるべきだ!』

何という不遜。何というプライド!
英国民の自尊心を絶妙にくすぐったこの演説は、
政敵のグラッドストンすら
「並外れた名演説だ」と評したそうです。

19世紀に輝いた「光栄ある孤立」
それは多くの外交官に支えられ、
時代の波へと消えていきました。

読者の皆様はどう思いますか?
人や組織との「距離」をどう保ちますか?

※大英帝国の歴史や外交に興味の出てきた方は、
こちらの書籍を↓

※「小ピット」についてはこちらの記事も↓

※パーマストンについてはこちらでも書きました↓

※ヴィクトリア女王についてはこちら↓

※歴代の英国首相、
ウォルポールからボリス・ジョンソンまでを
覚えたい方は、この動画を↓

ものすごい破壊力がありますので、
どうぞお気をつけてご視聴ください。

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