都道府県に市町村という「枠組み」。
日本に住む人は、この枠組みの中に
無意識に組み込まれていますよね。

国としては、日本国。
都道府県は、○○都・道・府・県。
市町村は、○○市・町・村。

日本国籍を持っていて
他国に住む方なら別ですが、
日本列島の中に住むなら、
ほぼ「自動的」にどこかに属することになる。

「うん、当たり前じゃないですか。
日本の国民であり、
○○の県民でもあり、○○の市民。
この『三重の所属』は、あるでしょ?」

…それはそうなんですけれども、

では、この「枠組み」は不変的なもの、
永劫に続いてきて、続いていくものなのか、
というと。

「うん、違います。
歴史の授業で、習いました。
『廃藩置県』で県などが置かれて
今の47都道府県
作られていったんですよね!
この『所属』は、変わり得る

ということで本記事では、
この枠組みについて、
歴史と地理の観点から、書いてみます。

まず、江戸時代までさかのぼりますか。

ご存知、徳川家康・江戸幕府は
全国に「藩」に地方自治を任せ、
そのたくさんの藩の上に立つ存在として
「全国支配の枠組み」を作っていきました。

『幕藩体制』とも呼ばれます。

(もっとも、この用語も
江戸時代が終わった後の歴史学者が
概念として生み出したもの。
歴史は、基本的に、後付けです)

一応、堅苦しく定義すると、藩とは

◆一万石以上の領土を保有する
封建領主の大名が支配する領域・支配機構

(ただ江戸時代には
「領分」とか「家中」とか
そういう呼び名が一般的。
「藩」というのは公式な呼び名ではない。
本記事では、便宜的に「藩」と書きます)

ただ、この「藩」も、江戸幕府の命令で
取りつぶされたり、移動させられたり、
そういうことが非常に多かったので、

「結局、江戸時代には、
いくつの藩があったんですか?」

と聞かれても、なかなか答えられない。

「○○県には、何藩があったんでしょう?」

と聞かれても、複雑怪奇。

何しろ江戸時代、約260年余りも続いた。
約150年余りの明治維新後の日本、
まだ約80年の戦後日本よりも、
断然、長いわけですから。

例えば、今の「茨城県」にあった
藩を列挙してみます。
( )内は今の市町村です。

◆保内藩(久慈郡大子町)
◆松岡藩(高萩市)
◆額田藩(那珂市)
◆水戸藩(水戸市)
◆府中藩(石岡市)
◆柿岡藩(石岡市)
◆下館藩(筑西市)
◆土浦藩(土浦市)
◆古渡藩(稲敷市)
◆江戸崎藩(稲敷市)
◆下妻藩(下妻市)
◆笠間藩(笠間市)
◆宍戸藩(笠間市)
◆真壁藩(桜川市)
◆牛久藩(牛久市)
◆谷田部藩(つくば市)
◆麻生藩(行方市)
◆結城藩(結城市)
◆古河藩(古河市)
◆大輪藩(常総市)

…いっぱい、ありますね。
まだあったかもしれない。
決して、水戸藩=茨城県、ではない。

このように現在の各地には
それぞれの事情を踏まえて、各藩が
江戸時代に置かれていました。
「天領」と呼ばれる
幕府の直轄支配の地域もあった。

それが、約150年前ほどの
日本の「枠組み」。
決して、大昔の話ではない。

さて、江戸幕府が無くなりますと、
明治新政府は、

『版籍奉還』によって、大名たちに
朝廷に土地と領民を返還させ、
『廃藩置県』によって、政府が
藩に代わる「県」を置いていく。

同時に「北海道」と「沖縄県」への
支配体制を確立していく。

(つい忘れがちですが、
北海道と沖縄県は、江戸時代には幕府が
直接に支配していたわけではない)

1871年の頃、つまり廃藩置県の頃、
どれだけの県が全国にあったのか?
実に「300以上」ありました。

逆に言えば、当時はそれだけ「藩」があった。

しかしこれだと、さすがに多すぎ。
1871年の11月には、
「3府72県」に統合されました。

…と言っても、まだ3府72県。

例えば茨城県の例で言えば、

今の「県央・県北・県西」
水戸を中心とした
北のほうは「茨城県」ですが、

今の「県南・鹿行」
土浦を中心とした
霞ヶ浦・利根川をぐるりと囲むあたりは
「新治県」(にいはりけん)

(もっと言えば、県西の西のあたりは
佐倉を県庁とする「印旛県」

この新治県には、
「下総国」千葉県の一部も含まれていた。
香取郡・海上郡・匝瑳郡。
つまり、香取市とか、銚子市とかは
「新治県」に含まれていたんです。

しかし、住民にとっては、
「えっ、あそことこことが同じ県?!」
など言って、すぐにまとまるわけがない。

そう、廃藩置県は1871年に
全部終わったわけではないんです。

その後も、全国各地で
「分離独立運動」「編入運動」が
断続的に勃発していきます。

「県庁」の場所も変わっていく。

このゴタゴタを受けて、新政府、動きます。

1876年(西南戦争の前年)、
「第二次府県統合」を敢行!
府県の数は、38になりました。
1881年、堺県が大阪府に統合され、37に。

茨城県と新治県も、
1875年には「利根川を境」にして
利根川の北は茨城県、
利根川の南は千葉県、となりました。

(印旛県の一部も茨城県になります。
ちなみに五霞町(ごかまち)だけは
利根川の西なのに茨城県。
前の利根川の流れが違っていたこと
などが理由だそうです)

それにしても、37…?

少なくなってません?

そう、この第二次府県統合は、
「まとめすぎた」。

そのため、各地域で
「復活・分県運動」が起きます。
悪めの言葉で言えば、

◆「あんなところといっしょにやれるかよ!」

ということです。
これによって、1888(明治21)年末までには、

富山県・福井県・奈良県・鳥取県・
徳島県・香川県・佐賀県・宮崎県の
八つの県が復活し、45府県になりました。

これに北海道と沖縄県を足して47。
「47都道府県」ができた、というわけです。

最後に、まとめます。

本記事では「藩」と「廃藩置県」、
その後の「調整」を中心に書きましたが、

もっと身近な「再編」を
私たちは経験していますよね。
「平成の市町村合併」(1999年~2010年)!

約3,200の市町村が、
約1,700ほどになった。ほぼ半減。

特に「2006年3月末まで」に合併すれば、
「合併特例債」が使える!と、
2005年~2006年のあたりには
悲喜こもごもの「くっつく、離れる」の
人間ドラマが展開されました。

「ルール」に則っているはずなのに
いさかいが起こる…。
「野球の乱闘」に似ています。

読者の皆様の身近なところでも、
色々な「すったもんだ」
あったのではないでしょうか?

都道府県・市町村。
つい当たり前に思う「枠組み」。

そういったものも、
少し歴史と地理を紐解けば、
決して「当たり前」ではない。

そう、枠組みの編成とは、
実は常に「現在進行形」なのです。
街も、人間と同じく、生き物。
市町村の危機、限界集落、
人口減少の問題もありますし…。

さて、読者の皆様が住む
地域の歴史と地理はいかがですか?
…「分離独立運動」や
「合併話」は、ありませんか?


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