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「ヴィルヘルム二世」という人がいました。
1859年に生まれ、1941年に死去した。

「ドイツ帝国」の第三代皇帝にして、
最後の皇帝!
第一次世界大戦が起こった原因の一人、
元凶だ、ともよく言われている。

…もちろん世界大戦は、
色んな状況と要因が複雑に組み合わさって
最終的に起こったことですので、
彼一人の責任ではない、とは思います。

しかし、彼が世界の至るところで
「炎上」をさせなければ、
大戦は起こっていなかったのではないか…
と言われるのも、また事実。

彼は、何をしたのか?
何を意図していたのか?


本記事ではヴィルヘルム二世について
その生涯を取捨選択して書いてみます。

プロイセン王子のフリードリヒ三世と、
イギリスの王女ヴィクトリアとの間に
1859年に生まれた。
日本史で言えば幕末、
「桜田門外の変」の前年です。

彼の母親のヴィクトリアは、
有名な「ヴィクトリア女王」の長女です。
すなわち、ヴィルヘルム二世は
大英帝国の女王の「孫」

イギリスから嫁いできたヴィクトリアを、
プロイセンの「鉄血宰相」こと
ビスマルクは警戒していました。
まだドイツが統一されていない頃。

「…この王女を通じて、英国がドイツ統一に
いちゃもんをつけてくるのでは?」

しかし当時、イギリスは大陸諸国に対して
「光栄ある孤立」という外交政策を採り、
そこまで口出しはしませんでした。
ただ、油断ならない英国の出身です。
ヴィクトリアは宮中で次第に孤立していった…。

彼女は、王子の子どもを出産。

それが、ヴィルヘルムです。
…母親のヴィクトリアは「教育ママ」となり、
この長男に対して非常に多くのことを
要求していった、と言います。
厳しい母親からの評価は、常に低かった…。

幼少の頃の記憶は長く続くものです。
この環境が後に「イギリス憎悪」の理由の
一つにつながったのではないか?

さて、1888年、祖父であるドイツ皇帝、
「ヴィルヘルム一世」が91歳で死去します。
父のフリードリヒが
「フリードリヒ三世」として第二代皇帝に。

…ただですね、この父はすでに
病魔に侵されていました。
即位後、わずか99日で死去!

その子が「ヴィルヘルム二世」として
第三代の皇帝に即位します。
父が亡くなった際、真っ先にやったこと。
それは、母のヴィクトリアを
一時幽閉すること
です。
父のフリードリヒは、ヴィルヘルムの
性格や才能を批判する日記をつけていた。
母を通じてその日記の内容が流出し、
イギリス市民に広がることを防いだ、
とも言われています。

1890年には「鉄血宰相」ビスマルク辞任。
若き皇帝と老いた宰相は、合わなかった。
こうして1918年の退位までの約三十年、
彼は手にした権力を存分に使うことになる。

…私たちは、後世から歴史を知っています。
彼の「権力行使」が、いかに空回りして、
世界を緊張させたかを知っている。

「この人が、もうちょっと
穏やかな外交政策を採っていたら、
世界大戦は起こらなかったのではないか?」

そう思うほど。
ただ、当時のヴィルヘルム二世には
そんな未来はわかりません。

◆ロシアとの独露再保障条約更新を拒否
→フランス包囲網が崩れる
→ロシアに警戒される

◆東アジアで「三国干渉」を実施
→日本から恨みを買って警戒される

「モロッコ事件」でフランスと対立
→フランスの恨みを買って警戒される

「3B政策」で海軍力を増強し東方進出
→ベルリン、ビザンティウム、バグダード
→3C政策を採るイギリスに警戒される

まあ、一言で言えば、危うい人です。
何を仕掛けてくるかわからない。
「ドイツの皇帝、危険じゃね?」と
各国から警戒されていく…。

「光栄ある孤立」を保っていたイギリスも、
このドイツの外交政策を見て
1902年には日英同盟、
1907年には三国協商を構築します。
「ドイツ包囲網」をつくっていく…。

ただ、ヴィルヘルム二世は必ずしも
火事を起こすつもりはなかった。
言うなれば「火遊び」ですね。

1908年「デーリー・テレグラフ事件」が起きる。
ロンドンの新聞、デーリー・テレグラフの取材で、
南アフリカで「ボーア戦争」を起こした
イギリスに対し、その裏側を暴露した。
(デーリー・テレグラフ砲です)

◆「自分は親英論者である」
◆「そのため自分は国内で孤立している」
◆「露仏両国からは対英大陸同盟案があった」
◆「自分はそれに乗らなかった」
◆「英国が勝利できたのは自分のおかげだ」
◆「ドイツ艦隊増強はイギリスが目標ではない」

…彼としては、祖母や母親の国、
大英帝国に「敵じゃないよ?」と
呼びかけた「つもり」でした。

しかし、これが炎上する。

「なんだあいつは、偉そうに!」と
イギリス世論が反発するんです。
もちろんロシアやフランスも激高する。
何を暴露してるんだ、こいつは、と。

…擁護するとすれば、
彼は最初から世界大戦を起こそうとして
行動したり話したりしたわけではない。
あくまで、結果的に、そうなった。

『ヴィルヘルム2世は危機を望まなかった。
ましてや戦争など望んでもいなかった。
彼は、不愉快で高飛車な発言を多くした。
しかしそれとは逆に、
彼は、本当は繊細で神経質で、
かつ平和愛好的な性格だった。
危機の中では、思い切った行動に
出るのにいつも尻込みしていた』

そんな評価もあります。

まあ、いますよね。
口では威勢のいいことを言いながら、
実はそんなに強気でも
覚悟があるわけでもない人…。

昨今のSNSでの「炎上事件」の
いくつかが思い起こされます。

当時の宰相ビューローは
ヴィルヘルム二世に対し、
「憲法を尊重して発言を慎んでください!」
と誓約させたそうです。

…ただ、世界の情勢は、動乱に向かう。

バルカン半島に火が着き、
1914年に第一次世界大戦に突入!
ドイツ国内では議会多数派が実権を握り、
ヴィルヘルム2世は祭り上げられ、
実権を奪われていた、とも言われています。

1918年、キール軍港で反乱が勃発。
「ドイツ革命」が起きる。
ヴィルヘルム二世は退位し、オランダに亡命。
以後、1941年に死去するまで約23年ほど
オランダで晩年を過ごしました。

最後に、まとめます。

本記事ではドイツ帝国の皇帝、
ヴィルヘルム二世について書きました。

偉大な祖父やビスマルクたちを意識し、
自ら先頭に立ってドイツを動かした人。
自分を評価しない母、ひいては英国に対して、
ずっと抱いていた複雑な感情。
火遊びをしつつ、
実は繊細で神経質な性格の持ち主…。

現代の社会においても、
偉大な創業者の後を継いだ
「二代目」「三代目」の方の中には、
様々な事情、煩悶を抱えている方も
いらっしゃるでしょう。

その周りもまた、色々と気を遣うものです。

ヴィルヘルム二世の生涯を知ることで、
様々な教訓が得られるように思います。


…さて、読者の皆様は、
誰の顔を思い浮かべましたか?

※竹中亨さんの書籍もぜひ。

※鉄血宰相ビスマルクや
ヴィルヘルム二世がいた頃の大英帝国の首相、
「ソールズベリー」については
以下の記事を↓

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