見出し画像

とにかく(計数に)明るい近江 ~三方よしの伏流水~

安心してください、稼ぎますよ!

…と、つい言ってしまいそうな雰囲気。
近江(おうみ、現在の滋賀県)と言えば
とても計数に明るいイメージがあります。
「近江商人」というパワーワードもある。

大手総合商社、伊藤忠商事の企業理念は
ずばり『三方よし』です。
「売り手よし・買い手よし・世間よし」!

自社の利益だけではなく、
取引先にも、社会課題の解決にも「よい」
三方よしの精神を掲げている。
これは「近江商人の精神」として名高い。

伊藤忠商事の創業者、伊藤忠兵衛は
近江国犬上郡豊郷村の出身でした。

近江商人の起源と展開には諸説ありますが、
室町時代あたりから安土桃山時代にかけて
存在感を増していき、
江戸時代には京都・大阪・江戸の三都、
ひいては全国に商圏を拡大させたそうです。

今日ある企業の中にも、
近江商人の流れを受け継ぐ企業は多い。
…本当に多い!
伏流水のように広がっている。

伊藤忠商事をはじめ、丸紅、
住友、三井、西武、髙島屋、白木屋、
ワコールや東レ、西川…。

トヨタ自動車の初代社長、
豊田利三郎も近江の彦根の出身、とのこと。
(書ききれなくてすみません)

…しかし、なぜ近江はこんなに
商業が盛んで計数に明るいのか?
本記事では近江にまつわる地理と歴史を
紐解き、その理由を考察します。

まずは地理的なものから。
近江と言えば「琵琶湖」
「(都に)近い(みず)うみ」です。
※ちなみに遠江(とおとうみ)は浜名湖。

…近代に「鉄道」が導入されるまで、
物資の運搬は水上交通が主でした。
広い湖上では、多くの船が行きかう。
本州の中での位置もまさに交差点。
東と西、南から北から、
多くの人が立ち寄っては立ち去っていく…。
交通・流通の要なんです。
三方だけでなく、四方八方に道が続く。

となると、商業が発展しやすい。

また、水が豊富にある、ということで、
古代から稲作、農業も導入されたはず。
となると、人口も増えやすい…。

「都」にもなったことがあります。
「近江大津京」です。
大化の改新で有名な天智天皇が、
667年に奈良の飛鳥から遷都した。
現在の滋賀県の県庁所在地も大津。

…ただこの四年前、663年、
天智天皇は「白村江の戦い」で
中国の唐と朝鮮半島の新羅の連合軍に大敗。
友好国「百済」の復興に失敗した…
という出来事があります。

滅亡した百済の遺臣の多くは
近江の地に移住した、と言われる。
「鬼室神社」や「石塔寺」など、
百済ゆかりの神社が点在しています。

そう考えると、朝鮮半島の百済で栄えた
質の高い学問や計数、商売の技術が伝わって、
この地に根付いた…としてもおかしくはない。
『街道をゆく』の中では司馬遼太郎さんが
「商人的素質をもった渡来人が移住し、
市を開き、比叡山と結んで専売権を確立、
商圏を拡張、全国に力を伸ばしていった…」

という説を述べています。

現実には複合的な要素が絡み合い、
商売に明るい素地が築かれたのでしょう。
それが一気に花開いたのが
戦国時代~安土桃山時代!
信長や秀吉の頃。

…信長の商業と言えば「楽市楽座」です。

しかし、実は信長が最初ではない。
近江国の南部を支配していた六角氏の
第14代当主、六角定頼が
観音寺城(今の近江八幡市安土町)で
「楽市令」を敷いたのが最初、とのこと。

これが1549年のことです。
信長が岐阜城下で楽市楽座を行ったのは
1567年ですから、だいぶ早い!

その信長の野望の前に屈服したのが、
六角定頼の息子、義賢です。
(六角承禎、とも呼ばれます)

義賢は、北近江の実権を握った
「浅井長政」(あざいながまさ)に
1560年の「野良田の戦い」で敗北します。
1568年には「観音寺城の戦い」
織田・徳川・浅井連合軍に敗北!
歴史ドラマでは「やられキャラ」として
描かれてしまうことが多い。

…ただ、浅井長政のほうも
途中で信長に反旗をひるがえし、
1573年に滅亡していました。

信長は、北近江の浅井氏を滅ぼし、
南近江の六角氏も追い詰めていく。
その中で六角氏の重臣、蒲生賢秀の息子に
キラリと光る才能を見出します。
何と、自分の娘をこの男に嫁がせた。
信長の娘婿!

蒲生氏郷(がもううじさと)です。

さて、信長は出身の尾張・岐阜と
京都・堺の中間地点にある近江を、
ことのほか重視します。
六角氏の本拠地、観音寺城の
支城があった安土山に城を築く。
これが、世に名高き「安土城」

腹心である秀吉と光秀には、
それぞれ琵琶湖の東と西、
長浜(今浜)、坂本の地を
守らせて、街を栄えさせる。

…しかし1582年、このうちの一人、
明智光秀が謀反を起こして
信長を討った。
その光秀も、秀吉に討たれる。

天下取りに突き進む秀吉を支えたのは、
計数に明るい近江出身の武将たちでした。
石田三成、大谷吉継、増田長盛、長束正家。
みんな近江の出身です。
(ちなみに六角義賢も、後に
秀吉の御伽衆になっています。
義賢の息子、六角義治は
豊臣秀頼の弓術の師範になっている)

そもそも秀吉自身がやり手の商売人です。
利を提案し、敵を消して、仲間を増やす…。

信長の娘婿だった蒲生氏郷は、
秀吉の天下取りに貢献。
会津91万石の大名となります。
彼は旧領の日野・松阪から商人を呼んで、
会津発展の基礎をつくりました。
「産業振興課大名」のようなもの。

一方、旧浅井家臣の家の出身である
石田三成は「五奉行」の中心となります。
九州征伐にも手腕を発揮しました。
薩摩の島津氏が降伏した後、
「経営コンサルタント」的に
島津氏に会計や商売を伝授したと言われる。

…そう、信長、秀吉の秘蔵っ子たち、
南近江出身の蒲生氏郷や
北近江出身の石田三成は、全国に
「近江の商業」を広げていたのです。

ただ、秀吉の死後、
1600年の関ヶ原で三成は負ける。
近江系の大名の多くが没落します。
(もちろん、京極や藤堂など
東軍についた大名もいますが…)

1615年の大坂夏の陣では、
「浅井三姉妹」の一人、浅井長政の娘、
淀の方が息子の秀頼とともに滅亡。

蒲生氏郷は関ヶ原の戦いの五年前、
1595年に病死していました。
40歳の若さで…。

こうして信長・秀吉流の
「商業重視」の風潮は断たれ、
「農業重視」の江戸時代が始まる。

…かに見えました。しかし、
江戸時代には「近江商人」が大活躍!
幕末には、薩摩藩が討幕を成し遂げる。


滅ぼされた浅井家と六角家、
没落した織田家と豊臣家の「近江精神」が
伏流水として江戸時代の裏で流れていき、
「殖産興業」の明治時代を呼び込んだ、
と言うのは、いささか言い過ぎでしょうか?

そう言えば、幕末に「開国政策」を採った
井伊直弼も「彦根藩」の藩主
でしたね。

最後にまとめます。

本記事では「近江商人」について
その起源や流れを探っていきました。

読者の皆様は「三方よし」、できていますか?

※滋賀・びわ湖へのお出かけなら、こちら↓

※北近江の英雄の一人、浅井長政が
南近江の六角義賢に勝利した
「近江の桶狭間」こと
「野良田の戦い」についてはこちら↓

合わせてぜひどうぞ!

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!