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茨城県は、北関東にあります。
その昔の『常陸国』(ひたち)と
『下総国』(しもうさ)の北部から成る、
都道府県の一つ。

県庁所在地は「水戸」(みと)!
ただ、古代からずっと水戸が中心だった、
というわけではない。
そもそも「廃藩置県」で茨城県ができるまで
一つの県として
まとまっているわけではなかった。

本記事では、茨城県の「本拠地」を
西暦約2000年を六つに分け、見ていきます。

◆西暦1年 ~600年頃 ≪約600年≫ 約3割
◆600年頃 ~1200年頃≪約600年≫ 約3割
◆1200年頃~1600年頃≪約400年≫ 約2割
◆1600年頃~1850年頃≪約250年≫ 約1.25割
◆1850年頃~1945年頃≪約100年≫ 約0.5割
◆1945年頃~2023年時≪約75年≫ 約0.25割

◆西暦1年 ~600年頃 ≪約600年≫

「縄文時代」から「弥生時代」へ、
貝塚、古墳、稲作、そんな時期の話。
茨城県のあたりは自然が豊かなので
食べ物もたくさん採れました。

「関東平野」がばばんと広がり、
東は「太平洋」、海の幸が豊富!
北部と中央部には「筑波山」など
そんなに高くない山。山の幸!
「霞ヶ浦」も川も多く、川の幸も採れる。
ゲームの『マインクラフト』風に言えば
「資材も食糧も取り放題」の
サバイバルにもってこいの場所
なのです。

霞ヶ浦の南岸「陸平(おかだいら)貝塚」
縄文時代の大規模な貝塚。
ハマグリ、クロダイ、イノシシなど
山の幸も海の幸も川の幸もてんこもりの
貝や骨が出土しています。

◆600年頃 ~1200年頃≪約600年≫

710年「ナント大きな平城京」ができて
3年後の713年から編まれた地理書、
『風土記』(ふどき)。
『常陸国風土記』にはこう書かれます。

(適宜、口語訳)

『常陸の国は、国広く、山も遥かに、
田畑は肥え、広野の拓けた良き国である。
海山の幸にも恵まれて、人々は安らぎ、
家々は満ち足りている。田を耕し、
糸を紡ぐ者たちに、貧しき者はない。』

なお、常陸(ひたち)の国名の語源は
「ヤマトタケルが井戸で袖を『ひたした』」
「ひたすら道が平らに続く『ひたみち』」

の二つの説が有力、だそうです。
「みちのおく」すなわち「みちのく」、
陸奥へと向かう「みち」のある国。

東海道の最先端、蝦夷討伐への最前線!

この頃の常陸国の本拠地は「石岡」でした。
北の水戸と南のつくばの中間にある街。
奈良時代に国分寺・国分尼寺
この石岡に建てられ「国府」とされました。

10世紀に、この国府を攻めたのが、
「平将門」です。坂東武者たちの反乱!
武士たちによる、京都、中央政府への抵抗!
この反乱は鎮圧されてしまいますが、
「武士たちによる京都支配への抵抗」は、
後に鎌倉幕府樹立につながっていきます。

◆1200年頃~1600年頃≪約400年≫

常陸国には、武士が多いんですよ。
何しろ東北の蝦夷征伐に向かう「道」、
最前線の地、でしたから。

武士団がたくさんできる。

武田信玄で有名な甲斐の「武田氏」も、
もとは、ひたちなか市の「武田」という
場所から生まれた、と言われています。

この武士団のうち、有名なのが「佐竹氏」
源氏の名門。北の常陸太田が本拠地。
同じく源氏の名門の、鎌倉の源頼朝が
佐竹氏討伐のため、常陸に攻めてきます。
ドラマ『鎌倉殿の13人』でもあった合戦!

源頼朝、佐竹氏に勝ち、勢力を盤石にします。
有力な御家人、八田知家に支配を任せる。
この知家が小田氏の始祖です。
県南の筑波山の近くにある「小田城」は
彼が建てた、と言われています。

北の佐竹氏、南の小田氏、
さらに西の結城氏、古河市には古河公方…。
中世の常陸近辺は、武士たちが並び立ち、
互いに覇を競い合う
まさに「群雄割拠状態」でした。

これを制したのが、佐竹氏です。

頼朝には負けたが、リベンジを果たす。
「水戸」に本拠地を移し、南方にも進出。
織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は
関東の北条氏を攻め、滅亡させます。
佐竹氏は秀吉に味方をすることで
常陸一国、五十二万石を手にするのです。

◆1600年頃~1850年頃≪約250年≫

ただですね、秀吉についた佐竹氏は
関ヶ原の戦いで「西軍」につくんです。
ゆえに、徳川家康から、にらまれる。
江戸から近い北東の地。
ここに強い大名がいると危険で、目障り。

…江戸幕府は佐竹氏に国替えを命じます。
常陸・水戸から遠い、秋田二十万石へ。

代わりに入ってきたのが、
名門武田氏を継いだ、家康五男の
武田信吉。武田家の発祥の地ですから。
ただ、この信吉がすぐに病没…。
代わりに十男の頼将を置く。
(のちに紀伊藩に移り、頼宣になります)
その後、十一男の頼房を水戸藩主にする。

五男、十男、十一男と、
家康が自分の実子を水戸に置いた
のも、
江戸の守りに、水戸が大事だから。

この徳川頼房が、水戸藩の祖。初代。
以来、二代の光圀(いわゆる水戸黄門)や
九代の斉昭(偕楽園を作った藩主)など、
『天下の副将軍』『御三家の一つ』として
水戸藩は幕藩体制の中で重きをなします。

◆1850年頃~1945年頃≪約100年≫

幕末の水戸藩は、まさに「激動」でした。

斉昭は、尊王攘夷の親分的な存在だった。
「桜田門外の変」も水戸浪士が中心。
「水戸天狗党」など過激な集団もできる。
斉昭の子、藩主の弟、慶喜が将軍になる。

そんな中、朝廷側と幕府側に分かれて
水戸藩内は分裂、内部抗争、粛清…。
幕末が終わった頃には
人材がほとんどいなくなっていたのです…。

ただ、誤解されやすいのですが
「水戸藩」=茨城県、ではありません。
今の県内のエリアには、十四もの藩や
天領、旗本領が入り乱れていました。
これが「廃藩置県」「合併」で、
徐々にまとまっていきます。

旧常陸国と、下総国の北部がまとまった。
今の茨城県が爆誕します。

そういう経緯があるので、
県庁所在地は「水戸」なのですが、
県南の「土浦」、県西の「古河」、
南東部の「鹿島(鹿嶋)」など、
各地の独立色がとても強い県になる。

もともと、領域が違うから。

そのうち、太平洋岸の「日立」が、
近代化、鉱工業によって発展します。
日立鉱山の石炭は、
鉄道「常磐線」によって運ばれました。

◆1945年頃~2023年時≪約75年≫

戦後には、筑波山のふもとに
「筑波研究学園都市」ができる。
鹿嶋市・神栖市に「鹿島港」もできる。

特につくば市は
「つくばエクスプレス」が開通、
東京と直接つながり人口が増え、
今や「県南のリーダー」となっています。

最後に、まとめましょう。

古代の陸平貝塚、国府だった石岡、
武士団、佐竹氏、徳川御三家、
日立、鹿島港、つくば…。

茨城=水戸だけではありません。
個性豊か、自然豊かな街が、
茨城県にはたくさんあります。
読者の皆様もぜひ興味のある所の
「本拠地の変遷」を探ってみて下さい!

※画像は筑波山の北、桜川市の
「雨引観音」のアジサイです。
偕楽園の梅、ひたちなかのネモフィラ、
季節の花々も見事です。ぜひ。

※日本史全体での本拠地の変遷はこちらから↑

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