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19世紀のイギリスは「大英帝国無双」、
世界各地に植民地を広げていました。

本国~エジプト~インドに、南アフリカ。
カイロ、カルカッタ(現コルカタ)と
南アフリカのケープタウン!
頭文字を取って「3C政策」。
世界的な政策を推進していたのです。

…しかしこれに「追いつけ追い越せ」の
新興国がいた。アメリカ合衆国とドイツ。

アメリカは19世紀半ばに南北戦争が終結し、
19世紀末には西のフロンティアが消滅。
太平洋・アジアへと手を伸ばします。

ドイツは鉄血宰相ビスマルクが退任、
新皇帝ヴィルヘルム二世の
「世界政策」で3C政策に対抗します。
ベルリン、ビザンティウム、バグダード、
いわゆる「3B政策」を採っていく…!

その難局に大英帝国の舵取りをしたのが、
「ソールズベリー」という人です。
本記事では彼の業績を通して、
この頃の大英帝国を見ていきます。

ソールズベリー、とは
本名ではありません。正確には
「Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil,
3rd Marquess of Salisbury」。
カタカナで書きましょう。
「第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・
ガスコイン=セシル」という人です。

長いので、ソールズベリー。

なお「ベリー」とか「バラ」という語は
「ブルク」=「城」や「囲い」に近い意味。
カンタ「ベリー」やエジン「バラ」など…。
地名、ひいては「爵位」の名前です。
「ソールズベリー」と言えば、
一番有名なこの人を指すことが多い。

保守派で、貴族の誇りを持つ。
選挙権拡大や民主主義思想には大反対。
193センチの長身。もじゃもじゃの髭男。

1830年生まれです。
1840年、10歳で名門イートン校に入学しますが、
ここでいじめに遭ってしまったと言われます。
「朝から晩まで絶え間なくいじめられます。
私が食堂に行くと、彼らは私を足蹴にします」
父親に涙の手紙を出して、イートン校を退学。
家庭教師について勉学に励みました。

1848年、オックスフォード大学に入学。
二年間だけ通って退学。
1853年、23歳の頃に保守党から立候補、
議員となりました。
ただ、彼は次男で嫡男ではなかったので
家は継げず、庶民院の議員だった。

さて、19世紀後半の頃のイギリス議会では、
二人の男が交互に政権を担当しています。

◆保守党:ディズレーリ
◆自由党:グラッドストン

保守党のディズレーリは、
「選挙権拡大」の法案を通そうとする。
同じ保守党のソールズベリーはこれに反対。
党に造反し、違う党である
グラッドストンの案に賛成票を投じる。

しかし、海千山千の苦労人である
ディズレーリには勝てません。
彼はヴィクトリア女王からの寵愛も厚い。
ソールズベリー、悔しいが彼に従った…。

この頃、後継ぎの兄と、父が亡くなり、
正式に「ソールズベリー侯爵」になります。
貴族院議員に鞍替え。

1874年、第二次ディズレーリ内閣発足!

ディズレーリは党内の敵、ソールズベリーに
「インド担当大臣」になるよう打診します。
彼は承諾。後には外務大臣に就任。
ここから、インドや世界戦略に関わって、
実力を伸ばしていきます。
ドイツの大物、ビスマルクとも渡り合う。

しかし1881年、ディズレーリが急死します。

急だったので、後継者が決まらない。
政敵の自由党にはグラッドストンが健在。
「彼に対抗するにはソールズベリーだ」
という声が高まり、頭角を現していく…。
1885年、ソールズベリーはついに
首相の座へと就いたのでした。

(最終的に計三回も組閣します。
この頃、日本から英国に
後の「かみそり大臣」こと
陸奥宗光が留学しに来たりしている)

ただ、彼が舵取りを始めた頃、
先述した通り、アメリカとドイツが
猛然と追い上げを図ってきています。

ソールズベリーは、政敵である
自由党の実力者に協力を求めて、
事態を打開しようとした。
ジョゼフ・チェンバレンという男です。
彼を「植民地大臣」に任命。

このチェンバレンは「社会帝国主義」
という考えの持ち主でした。
「社会主義プラス帝国主義」。
社会保障の財源を帝国主義、すなわち
植民地からの富で補おうとする。

1895年に「ジェームソン侵入事件」
という事件が起きます。
どこで? 南アフリカで。
南アフリカ会社のジェームソンという男が
南アの「トランスヴァール共和国」に
攻め込んでいったのです。
政府はジェームソンを処罰し、
「セシル・ローズ」社長を追放した。

しかし、事態は良くならない。

1899年に『ボーア戦争』が
南アフリカで起こりました。
(正確には「第二次ボーア戦争」)
ボーアとは、ケープ植民地に住む
オランダ系移民の子孫。
南アの支配権を巡って、イギリスと、
このボーア人たちが対立した。
金やダイヤの産出が多いので、
大英帝国としては手放せない。

「こちらは天下の大英帝国だ。
すぐに倒せるだろう!」

本国の人たちは楽観的でした。
ところが、なかなか勝ちきれない。
ボーア人たちは地の利を生かして
ゲリラ戦を展開した。

…例えて言えば、第二次世界大戦後の
「ベトナム戦争」と構図が似ています。
大英帝国は、南アで泥沼にはまった。
1902年、約3年も戦争が続きました。
この間に反戦運動が広がり、
「労働党」が生まれたりもしている。

「アメリカ、ドイツ、フランスやロシア…。
これは英国一国だけで
対抗していくのは無理じゃないか?」

ソールズベリー、悩みます。
…少年の頃、イートン校で味わった
「孤立」が頭をよぎったかもしれない。
これまでの大英帝国は
「光栄ある孤立」という外交だった。
しかし、この状況に至っては
どこかと手を組んだほうがいい。

ちょうどいい国がありました。
東アジアの新興近代国家…。

ソールズベリーはロシアに対抗すべく、
日本との同盟を模索します。
当時の駐英公使、林董(はやしただす)は
陸奥宗光の古くからの盟友でもありました。

交渉を重ね、1902年、
日本の元首相の伊藤博文が来英!
ソールズベリーは彼と面会し、
「日英同盟」を正式に結んだのでした。

…ただこの同じ年、ソールズベリーは
病気で退任。翌年1903年に死去。
後を継いだのは甥のバルフォアでした。

最後にまとめます。

本記事では「ソールズベリー」の
事績を通じて、19世紀後半の
大英帝国の外交を見てみました。

このあと1904年には日露戦争が勃発。
イギリスは「三国協商」を結び、
1914年には第一次世界大戦が勃発。
欧州は力を減らしていき、大英帝国は
黄昏の時期を迎えていきます。

現代のビジネスにおいても、
信頼できる仲間とつながりをつけて
コラボしたほうがいい。
たとえ今はまだ、力が強くても。
泥沼にはまって、手遅れになる前に…。

ソールズベリーの頃の難しい舵取りは、
様々な歴史の教訓に満ちているように、
私には思われるのです。

※19世紀の大英帝国の外交政策の概要はこちら↓
『「光栄ある孤立」の盛衰
~パックス・ブリタニカの外交~』

※「かみそり大臣」こと
陸奥宗光についてはこちら↓
『龍馬亡き後の陸奥 ~実は波乱万丈~』

※18世紀の半ばの大英帝国外交、
「パーマストン外交」はこちらから↓

※ディズレーリを寵愛した女王、
ヴィクトリアについてはこちらから↓

※ドイツ帝国のラストエンペラー、
「ヴィルヘルム二世」については↓

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