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坂本龍馬? 知ってる! 赤松小三郎? …誰?

というのが、
一般的な反応ではないでしょうか。

この小三郎、勝海舟の弟子のひとり。
有名な坂本龍馬よりも先に、
「議会政治」を提唱した先駆者なのですが、
龍馬と同様に幕末に暗殺され、
そこまで有名ではない。

本記事は、消された先駆者、
赤松小三郎について。

師匠の勝海舟は、後年、
このように言ったと伝えられています。

「薩長連合、大政奉還、あれァ、
ぜんぶ龍馬一人がやったことさ」

…本当?
それはさすがに、誇大広告なのでは?

勝海舟という人は、かなり意識的に
「後付けの広報」を行う人でして。

もともとが幕臣、つまり幕府の家来でした。
思うように、自由には動けなかった。
だからこそ自由に動きやすい弟子を使って、
色んなことを仕掛けていった人です。

後年、というのは
明治政府ができてからのことですので、
幕末の記憶も、だいぶ薄れている。

そこで、「土佐の坂本龍馬」という男を
「あえて」クローズアップして、

「薩摩や長州、朝廷、最後の将軍徳川慶喜、
そういう人ばかりではなくて、
その裏には、無名の人たちが
頑張ってたんだぞ」ということを
『宣伝』しようとしたのではないか?

…何となく、私にはそう思えるのです。

「宣伝」する時には、
「象徴的なキャラ」が必要です。
地域の特産品を宣伝するときでも、
ゆるキャラとかご当地キャラとかが
出てくる
じゃありませんか。

「こいつ、すげえんだよ!」的な
好感度の高い一人に絞って、
キャラを「作り上げていく」。

勝海舟は、そういうことをしようと
したのではないか?

ただ、現代でも龍馬が有名なのは、やはり
司馬遼太郎さんの小説『竜馬がゆく』
影響もあります↓

司馬さんも「魅力的な虚像」をつくるのに
天才的な腕を持っていまして、
私も、すごく面白く読みました。
それが「大河ドラマ」にも取り上げられ、
魅力的な虚像が独り歩きしていく。

…ただ、その「キャラの取捨選択」の裏では
無数の無名の人たちがいたわけでして。

すみません、前置きが長くなりました。
赤松小三郎について↓

1831~1867年。36年ほどの短い生涯です。
坂本龍馬が1836~1867年なのでほぼ同世代、
5歳ほど年上で、同じ年に死んでいます。

彼は今の長野県、信州上田に生まれ、
上田藩の藩士、芦田勘兵衛の次男として
「清次郎」と名付けられました。

1848年、17歳の頃に江戸に遊学。
数学や西洋兵学を学びます。

1854年には赤松家に養子に入る。
1855年には勝海舟に弟子入り。
1860年には養父が病没、
赤松家を相続し、その翌年、
「小三郎」と改名します。

ようやく「赤松小三郎」の誕生です。

1860年と言えば、かの有名な大老、
井伊直弼が「桜田門外の変」で
暗殺された年。
いわゆる「幕末の風雲」の真っただ中!

さあ、小三郎は、何をした?

…故郷の信州上田で、学んだ西洋兵学をもとに
「調練調方御用掛」「砲術道具製作御掛」を
務めていました。
このあたりが、同じ勝海舟の弟子である
坂本龍馬とは違うところ
です。

龍馬は故郷の土佐藩を脱藩し
勝海舟と海軍操練所設立のために
奔走しています。
「日本の夜明けのために、海軍つくるぜよ」。
いかにも、ドラマ的な展開。
それに比べて小三郎、いかにも地味。

しかし、この地味な小三郎が、
一躍、歴史の舞台に立ちます。

1864年、第一次長州征伐。
この時に小三郎、公務として
江戸に出てきます。

この際に、横浜で
イギリスの騎兵士官、アブリン大尉から
騎兵術や英語を学びました。

もともと西洋兵学を学んでいた上に、
実際のプロに教えてもらえた。
これを活かし、第二次長州征伐の際には、
陣の中で、兵書の翻訳を進めていきます。

1866年3月には、
『英国歩兵練法』という本を翻訳・出版。
幕末も煮詰まってきて一触即発、
みんな、強いイギリスがどう戦うのか
知りたがっているわけです。
それが、日本語で詳しく書いてある!

「赤松小三郎、何者ぞ?!」

一躍、佐幕派、討幕派、いずれにも
その名がとどろいていく。

しかし小三郎の才能は、
西洋兵学だけにはとどまりません。

長州藩の大村益次郎(村田蔵六)もそうですが
西洋兵学に詳しい人は、
「なぜ欧米列強はそんなに強いのか?」
国の仕組みにも詳しくなるものです。

1866年9月、小三郎は
信州上田藩の藩主松平忠礼に向かって

「藩内の身分制度を撤廃し、
言論活動を自由にするべきです!」


と建白書を提出します。
画期的な提案!
明治時代を、明らかに先取りしていますね。

彼に目をつけた藩があります。
九州の雄藩、薩摩藩です。

なんと小三郎は薩摩藩にスカウトされ
京都の薩摩藩邸にて
兵学を教えることになる
のでした。

東郷平八郎、樺山資紀といった、
明治時代にも活躍する軍人たちに
英国式兵学を教えているのです。

1867年、薩摩藩の依頼により
『英国歩兵錬法』を改訂して新訳で出版。

ただ彼は、薩摩藩べったりではない。
3月には、会津藩の
洋学校の顧問にも就任しています。
5月には、前福井藩主の松平春嶽や、
薩摩藩の島津久光、幕府に対して、
建白書を提出。

そこには、
各藩が協力して国を一つにすること、
六人の優れた大臣を天皇の下で選ぶこと、
上院議院、下院議院を設置すること、

など、これまでの国の仕組みに変わる
新しい国の形が示されていました↓

坂本龍馬が語ったとされる
「船中八策」よりも前のこと。
というか、当時、新しい国の形を
考えていたのは一人ではなかった。
何人もの人が、考えていた。

それが後世にはあたかも
坂本龍馬「だけ」が先進的に先を見据えて
考えていたかのように伝わっています。


…しかしこの小三郎の活動、
薩摩藩にとっては、邪魔でした。

薩摩藩は「討幕」です。
福井藩や幕府にまで呼びかけ
「(徳川家も含めた)みんなで
仲良くしましょう」という説を
広められては、誠に具合が悪いのです。

1867年9月。

彼は、信州上田藩に帰る途中で
暗殺されました。
彼が兵学を教えていた門下生、
中村半次郎(別名、人斬り半次郎)
たちの手によって…。

「幕府のスパイだから斬った」

後に半次郎はそう述べたそうです。
おそらくその裏には
西郷隆盛の考えもあったのでしょう。

小三郎は、薩摩藩の軍事機密に詳しく
しかも福井藩や幕府にも出入りしている。
議会政治を唱え、討幕には反対。

薩摩藩にとっては、危険人物だったのです。

まとめます。

坂本龍馬と同年に暗殺された小三郎。
しかしその知名度は
龍馬とは比べものにならないほど低い。

彼の行ったこと、提言は、
龍馬よりも早く、先進的なものでした。
決して「龍馬がひとりでやったこと」
ではない
のです。

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