【連載小説】2-Gのフラミンゴ⑤

 五月下旬、満天の下、太平洋西端を北上する大型フェリー船の甲板上で、我々は和解した。我々とは、私と、富良民子。あれは和解だった、と思う。少なくとも私はあの日、あの夜、民子を許す気になったのだ・・・・・・
・プリントの渡し方がおかしいこと
・民子の落とした消しゴムが、特に私の席の方へ転がってきたわけでもないのに何故か反射的に私が拾いに行って民子の机に置いてあげた時に礼がなかったこと
・たまたま登校時に下駄箱で出会わし勇気を出して「冨良さんおはよう」と声をかけた時の返しが「す」一文字の無声音(永久に意味は不明。thの発音だった気もする)だったこと
・「す」(th)を言いながら当然にノールックだったこと
・給食の時、席の関係上同じ班で食べる筈なのに、民子は勝手にグループを作ってそっちで食べること
 ……一切をあのせんちゅうはくの夜に、許したのだ・・・・・・。
 せんちゅうはく。
 漢字では船中泊と書く。
 全五泊六日の北海道への社会科見学、その行程は、本州東海岸にある港を深夜零時に出航するフェリーに乗り込むことから始まる。それから各自事前に決められた客室に入り、そして、眠る。確か二十人くらいが一つの部屋に詰め込まれ、二段ベッドや三段ベッドで眠るのだ。さあこれからクラスのみんなと楽しい北海道旅行の始まりだ! または、やるかやられるかのバトルロワイヤル開始だ! と良くも悪くも高ぶり切っている筈の初手、寝て下さい、と言われて寝られる人の方が珍しいのではないか。と思ったら案外一、二時間もした頃にはみんな寝息をかき出した。
 私は繊細なので眠れなかった。耳栓を持参していたがそれでもダメだった。
 確かもう三時を過ぎた頃、退屈過ぎて、ベッドから出たのだ。尿意があったわけではなかったが取りあえずトイレへ行き、なんとなく顔がふくれて乾いてふぁさふぁさする感じがあったので、水を顔に塗った。
 潤った。
 鏡に映る私は青地に赤のラインが何本か入ったジャージを着ていた。青地は水浦五中のカラーであり赤のラインは学年のカラーだ。ジャージはダサかったが、顔がりりしくなって来ている気がして、数分眺めていた。昨今急速に頬が引き締まってきて、鼻筋も通ってしゅっとした顔つきになりつつあるようだった。俳優になろうかと思った。
 大型船の低いエンジン音、波の音、・・・・・・、景色は何も見えない真っ暗闇の窓・・・・・・、・・・・・・。
 その時、風・・・・・・、風を浴びたい、という欲望が起こった。
 浴び飽きた地元の泥風ではなく水分たっぷりの、夜の太平洋の風を浴びてみたい。
 甲板に出るための階段を登っていくと、何やらプラスティック製の黄色い鎖が張られていた。ルールを守る気のある者は通らないで下さい、という形ばかりの鎖だった。
 「おためごかしのかまととぶった鎖に過ぎない」
 
 私はこれをまたぎ越えた。

 甲板に、
 風が吹いていた。
 潮風がフラミンゴピンクの髪の毛をなぶる。
 先客・・・・・・。
 民子はひとり、甲板の手すりに腕をのせ、青ジャージを着て、海と空を眺めていた。
 プリントの件その他の恨みがあったので、そっと近付いて行って海に突き落としてやろうかとも思ったが、さすがにやられたこととやり返すことの平衡が取れないと考え、その案は除外した。
 波と風が私の足音をことごとくかき消した。
 とうとう腕を伸ばせば届く距離にまで歩み寄ってしまってから、突き落とさないのだとすれば一体何を目的として私は民子に近付いたのだろうか、と自問した。話しかけてみたところでどうせまた嫌な思いをさせられるだけということは分かっているのに、わざわざ何をしに来たのだろう? 
 見慣れ過ぎた民子の後ろ姿。いつだって民子は前ばかり見ていた。
 どうやったら民子は振り向いてくれるだろう。俺に気付いてくれるだろう。
 考える内、既に私は一分三十秒に渡って民子の背後に立ち続けており、いい加減動かねばならないと考え始めていた。太平洋の夜空にしし座が笑っていた。星々の下で民子は今日も前ばかり見て。私はいつも後ろ姿ばかり見て。
 更に二分、経った。
 結局、右の拳を握り込み、まっすぐ、民子の背、右肩甲骨と背骨の中心の辺りめがけて突き伸ばした。暴力としてではなく、意思表示としての右ストレート。
 たまにはこっちを見ろ。
 「うわ!」
 驚いた民子が振り返る。私は右腕を突き伸ばした態勢を敢えて維持した。パンチを食らわせてやったのだと明示するために。
 初めて振り向いた民子の顔は、両の眉を完全に剃り落としてしまっており、本来眉があるべき所には、真紅の五芒星が描かれている(または、シールを貼っていたのかもしれない)。故に、ちょっと表情は読みにくい。
「なんだ、沼越か。何してんの」
 存外に、優しい声色で問うて来る民子に、
「眠れなくて。白田くんのいびきが、うるさくて。……富良さんも眠れなかったの?」
 と私は一気に三つのセンテンスで返した。名前を呼ばれたことに、内心たじろいでいたのだ。
「うん。まあ。それで今、何でパンチしたの」
「振り向いて欲しくて」
「・・・・・・」
 この沈黙、眉が赤い星なので表情が読みづらいのだが、もしかすると怒っている可能性があった。いきなりパンチをされたからという子どもみたいな理由で。しかしここでは、怯むのが一番まずい。私は急いで、
「なんてね」
 と付け加え、しし座を仰ぎ、へら〜ッ、と笑って見せた。
 満天の下、
 ひときわ燃える真っ赤な二連星。
 風になぶられるピンク色の毛髪はさながら氾濫、天の河。
 そんな素敵すぎる詩が浮かび、すぐに沈んだ。
「前から思ってたんだけど……、沼越って、ほんとは、どっちなの」
 私には民子の質問の意味が全く分からなかった。が、分かったふりで、
「どっちだって同じことさ」
と肩を竦めた。
 民子はこれに応えず、全く表情の読めない顔でしばらく私を見つめたのだった。私もひるまず見返した。長く見ていると本当の目と赤い星とが四つの目のように錯覚されて来る。変な顔だと思った。眉ってただの毛だけど大事なんだなとも思った。
「なんだ、やっぱそっちか」
 急に突き放された感じがして黙り込んだ私をなおも民子は見つめた。眉が星なのでどういう感情なのかは分からない。
 やがてポケットから何やら取り出して、
「耳栓貸して上げるよ。一回しか使ってないやつだから」
「ふぇ?。え。あの。でも、しかし」
 と、つい素で戸惑ってしまったのは、「しか」という副助詞の意味の理解に思考力の大半を費やさねばならなかったからだ。
「わたしは予備もあるから」
 耳栓は、私だって自分で持って来ていた。戸惑いつつ、二つの耳栓を民子の指から受け取った。ぷにゅぷにゅの、柔らかいタイプの耳栓だった。向き合ってものを受け取ることの、なんという恍惚。左右二つ、五芒星は鎮座して、魔力を放つようだった。
 やがて去って行こうとする民子に私は聞いた。
「俺も前から聞きたかったんだけど、何で髪そんな色にしてるの?」
 階段を降りる足を止めることなく民子はフラミンゴピンクの髪を大袈裟にかき上げる。
「地毛です~」
 今思えば、我々の会話も、やり取りも、徹頭徹尾、噛み合っていなかった。
 結論、私は民子を、許した。

つづく
(次回は2/28水曜日更新予定です)

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