愛が無ければ全てはなんの意味も持たない

最近、教会にずっと行ってるから久方ぶりにキリスト教じみた話をしたくなる。
僕が一番好きな聖書の言葉がある。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。」(1コリント13:1〜3)

キリスト教って神様を信じていれば全てがうまくいきますハッピー!みたいなイメージを持たれるし、実際そんなことを言う教会もあるけど実際は全然そんなことはない。
旧約聖書にはヨブ記みたいなものがあって、めっちゃ神様を信じているけれども理不尽にクソみたいな目にあうこともあるし、そもそもイエス様だって「なんでこんな理不尽な目に遭わなきゃいけないの?まあ、神様がそう言うならそうしますけど…」みたいなこと言う宗教だ。

この世の中は死ぬほど理不尽だ。
その理不尽を是正しようと、それこそ命をかけてなんとかしようとしている人たちがいて、それはとても尊敬するんだけどフェニミストみたいに微妙に方向性が狂っている人たち(主にTwitterで)が出てくる社会を見て、今一度愛について考えたいと思うんだ。

言っておくけど愛が無ければこの世の中のすべて無意味だからな。

キリスト教ですら山を動かす信仰を持っていても愛が無ければ意味がないって言っているからな。
信仰、希望、愛の中で愛がもっとも大事だって言っているからな。
正義なんて、この中にすら入っていないからな。

僕はずっとキリスト教で生きてきて、この価値観で過ごしてきて、周りの人と「あれ?おかしいな、意見が合わねえ」って思ったことが多々あるんだよ。
そこに愛はあるのかい、なんて昔のドラマみたいなセリフは吐きたくないんだけれども、その通りなんだよ。今の日本は。
インフルエンサーでも、著名人でもなんでもいいんだけれども、愛が大事なんだって誰が言っているんだい?

人を愛して、人に愛されて、自分がズタボロみたいになっても意地はって膝を立てて自分が食う米を誰かに差し出してよ。
自分だって睡眠薬飲まなきゃやってられない夜を過ごして、昼になれば誰かのために笑顔でありがとうございますって言ってさ。
好きでもない人に抱かれて気持ちよくしてさ、気持ちよくなってさ。
蔑まれてるような生き方してても、発達障害や知的障害で世話をかけるようなことしてもさ。

生きててくれてありがとう!って言いたいじゃねえかよ生きててくれてありがとうだろうよ!この世の中に生まれてきてくれて、そして今も生き続けてくれてんだよ。あんたが自分は駄目だって思っていても、絶対にあんたが生まれてくてくれてありがとうって言ってくれている人はいて、出来れば僕がその一人になりたいし、とにかく産まれて生きていくれてありがとうな。
とりあえず、手を繋ごうぜ。手を繋いで愛しているって言いたいんだよ。

そうしようや。
盛者必衰と言うし、完璧な人間はいないし、どんだけ最高だって思う人間も一瞬で地位を失うような世の中だ。
僕もクソみたいな人生を生きているよ。だから、誰かに手を取ってもらって生きていてくれてありがとうなって言われたいよ。
だから、僕は言うよ。
生きていてくれてありがとうな、愛しているよ。
一緒に生きていこうな、辛いけど。辛いけど生きていこうな。
愛しているぜ。


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