時代から取り残されるのはフェミニストの方なのではないか?

献血ポスター問題からずーーーーーーっと、考えていた。
現状のフェミニストの方々に対しての疑問がどうしても消えなかった。
「この人たちは何でこんなに偉そうに物を語るんだろう?」という気持ちだ。
女性の権利を男性と平等にする。
言っていることは至極まともで当たり前なことなのに、消えないこの不快感はなんだろう。モヤモヤした気持ちを抱えながら日々を過ごしていた。

そんな時に、#私たちのフェミニズムという題で始まったハフポストの連載が始まった。その第一回に西村博之(ひろゆき)さんの対談が掲載され、大きな波紋を呼んだ。内容に関しては疑問に思うところもあったが、西村博之さんのこれまでの発言などを考えて敢えて露悪的な発言をしているのかも?と穿った考えもしてしまい是非の判断はまだつかない。

ただ、その記事に対しての反応(その後の反応)は僕の疑問を強めた。

「遅れている」「置いていく」
「自分の記事を読んでもらえると思っているのだろうか」
こういった言葉を僕は良いとは思わないし正しくないとも思う。
人は自分が正義に属していると思うと途端に人を裁くようになる。強い言葉を使うフェミニストの人たちもそうなっていると僕は感じている。
そして、それが僕が彼ら彼女達に見る不快感の正体だとようやく気づけた。

さて、フェミニストの人間が正義の側に立ち(あくまでもフェミニストが言う)何も分かっていない人間を排斥することについて何が問題になるのか?何故、時代から取り残されることになるのか?

それは至極簡単で人を排斥する人間は同時に排斥されるからだ。

フェミニストが持つ言葉や行動が受け入れられたのは女性が「弱者」であるからだ。今の日本でもそれは変わらない。女性は男性よりも権利が少なく社会的に弱いのは事実だ。
だからこそ、彼女たちが男性に対して平等を求める声は尊重されるべきだし社会がその方向に動くことに異論はない。

しかし、この世の中にいる「弱者」は女性だけではない。
障害者、精神疾患者、貧困者、発展途上国に住む人間など多岐に渡る。
完璧な弱者は存在しないし、完璧な強者は存在しない。
個人は自身のアイディンティと属性によって、時に弱者となり時に強者となる。
言い方を変えれば時に被害者となり時に加害者となる。

だからこそ僕たちは誰かと応対する時に敬意を持って接しなければならない。
相手の属性を全て知ることは不可能であり、時に自分が加害者の立場で相手と応対することもあるからだ。
「男性」と言う属性を持って生まれた人間であったとしても貧困の家庭に生まれ、容姿や能力に恵まれずにいる人間は果たして「強者」なのだろうか?
働けばとりあえず認められる男性優位の社会ではあるが、そのレールから外れた「男性」は果たして強者なのだろうか?
彼らが「女性」は恵まれていると言う時に、その言葉は男性優位に生まれた故の傲慢な言葉なのだろうか?

僕はよくそんなことを考える。
もし、その問いに対して「そんなことは知らん」と答えるフェミニストがいるとすれば、その答えは全てフェミニストに返ってくる。

どれだけ、女性の権利を訴えても
「健常者」のお前の言葉なんか知らん。
「先進国」のお前の言葉なんか知らん。
「容姿に恵まれた」お前の言葉なんか知らん。
と、別の弱者に言われて同じ穴の狢よろしく「弱者同士の戦い」という最悪な未来すら作り上げる。

僕たちの社会にはそういった最悪の未来を回避するために新しく「ダイバーシティ」という考え方を作り上げた。
基本的人権の尊重という当たり前を当たり前に実行するための社会的システムを構築しようという流れを僕は支持する。
女性であろうと障害者であろうと、貧困者だろうと能力がなくても「男性」だろうと尊重される社会を作り出そうとする動きが出てきた。

さて、自分が持つ1つの属性で自分を絶対的な「弱者」とする人間が、相手が持つ1つの属性で「強者」と断罪してこの社会から排斥するような運動が支持されるのだろうか。僕はそうは思えない。
女性の権利は男性と平等であるべきだし、そのように社会が動いていくことに疑問はないが、そのやり方については是非を問うべきだと思う。

最後に僕はクリスチャンだから好きな聖書の言葉でも引用しよう。

あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、  裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
マタイによる福音書25章35節〜40節

元々の意味は違うんだろうけれども、こんな僕でも大切な人のために何か出来ていたのだろうかと涙した箇所だ。
そして最近、特に思う。
最も小さい人とは誰のことなんだろう。

それは僕ら一人一人のことだと思うからお互いの尊重と敬意だけは忘れてはいけないと思う。


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