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アーユルヴェーダ〜インドで子宮頸がんの治療を受けた話〜後日談

皆さん、長期に渡って"アーユルヴェーダ〜インドで子宮頸がんの治療を受けた話" を読んでくださってありがとうございました。私がインドで子宮頸がんの治療を受けたのはもう8年以上前のこと。いまだに再発せずに元気で過ごしています。今日はインドから帰った後日談を綴ります。



インドで治療を終えて、私は当時住んでいた東京の中目黒の自宅に帰宅しました。日本を出国する直前、妹と一緒に運営していた中目黒の「寫眞館 太陽と月」をクローズし、その閉館作業は全て妹に任せていました。

私がインドに行ったのは病気が発覚してから3ヶ月近く経っていたので、癌への進行を防ぐ為にも私は全て妹に任せてインドへ発ちました。一人で全てやってくれた妹は本当に大変だったと思う。帰国後、私の友人から「陽子ちゃん、ほんっっとに大変だったよ。わかってあげてね」そう言われた位です。

帰国して突きつけられる現実

久しぶりにインドから帰宅すると、私の家は段ボールが山積みで自分の荷物と、写真館の物とで溢れかえっていて、普通に部屋を歩けない。テーブルと椅子の周りをぐるっと段ボールが積み上げられていて、ご飯を食べていてもまるで狭い小さな空間に入れられているかのようだった。

早くそれを片付けようと段ボールを開けるとまた荷物が溢れて、どうやって整理したら良いかわからなくなっていった。広い家から狭い家に、同じ量の持ち物を入れてしまっている状態。友人からもらった、ヴィンテージ家具や食器などはその友達に全て返却し、引き取ってもらった。

段々と荷物があることで気分も重くなってきて、落ち着かない。息苦しい。気を紛らわせようと、久しぶりに付けたテレビからは物凄く怖いニュースが流れてきて、それ以降怖くてテレビを付けなくなった。欲しくもない情報が勝手に自分の耳に流れてくる。。。今でもその時のことを思い浮かべるとゾッとしてしまう。

写真館は私がインドに行く時とは全く違う、元の借りた時の状態に戻っていた。3年間積み上げてきた私達姉妹の全てが、そこには一欠片もなかった。拘り抜いて、たった一つしかないものを求めて私は自分の世界を”そこ”に詰め込んだ。

もう同じことは出来ない、あの写真館は作らない。
その後も「寫眞館 太陽と月」の、私達の世界観のファンはいて、「撮ってもらうのが夢でした」と言われることもあったし、当時はなかったヴィンテージドレスにドライフラワーのブーケの森のウェディングスタイルは、今では似たスタイルの写真スタジオをよく見かけるようになった。

まだまだやれた気もするし、やり尽くした気もする。

インドへ出発する前に、最後に見た「寫眞館 太陽と月」の光景。
あの一瞬、誰もいない。私とそこの空間だけの世界。
忘れもしない、その時に感じた「無」

光に包まれていて、異空間に入ってしまったような
悲しさでも、悔しさでもない、虚しいとは違う、例えようがない
その時、味わった「無」を私は忘れることはない。

その私の後ろ姿を、友人が扉を挟んで見ていたと後から聞いた。
「声がかけられなかった、そこに入って行ってはいけない気がした」と彼女は言っていた。

うつ病を発症

写真館を退去し全ての作業を終えても、家に帰ると私の家は段ボールの山だった。箱を開いては荷物を確認し、また次の段ボールを開いては確認。
途方に暮れて、普通の生活ができない。物を取るのにも服を着替えるにも狭くて、スムーズに歩けない。段々と服も選べなくなって、作業ばかりしてるので同じ服ばかり着るようになっていた。

一週間が経って、このままではまずいと危機感が走り、私はよく改築やアンティーク家具を探すときに連絡していた工藤さんという方に電話をした。
「ちょっとお願いがあって。。。家にあるものを撤去して欲しいんです」
そう伝え、工藤さんは翌日すぐに家に来て下さった。

部屋の状態を見て彼は「これ、どれくらいの期間、この状態?」と尋ねた。「一週間なら、大丈夫、よかった。これじゃあ、息が出来ないでしょう。まず、段ボールは開かないようにして!すぐに使わないもの、生活に必要ないものは預かっておいてあげるから、ここから出そう」そう言ってくれ、私は急に涙が止まらなくなった。

これまでの状況を話して、察知した工藤さんは私が何年間も大事に持ち運んでいた友人の手作りの大型のシェルフを処分しようと提案してくれた。実は友人が心を込めて私の家の為に作ってくれた家具を捨てることができなかった。引越しする度に、沢山の人を巻き込んで運ぶのが大変な家具。友人からの気持ちが籠った思い出深いものだったけど私は処分をお願いした。

思い出して悲しい思いがする「物」は全て手放した。高価なものも、自分が作った手作りの思い出の品も、必死で集めたヴィンテージドレスも今の自分には不必要で心に大きく負荷がかかるものは手放さないと息ができなかった。インドから帰って以来ヴィーガンだったこともあり、エネルギーにとにかく敏感で「ネガティブなエネルギー」をモロに受けてしまい、身も心も消耗していた。

工藤さんに荷物の処分をお願いしたことで、家に空間を作ってもらい、
やっと息ができるようになった。

インドから日本へ帰ったのは11月の下旬。その後、年末まで自分の会社の廃業の作業で仕事はできなくて、また次の仕事のことを考えると頭や手が痺れて考えることが出来なかった。その年の年末年始は実家がある広島には帰らなかった。

帰っても皆んなと同じ料理が食べられないしそれを見るのも辛いと思い、一人で年を越した。今までの人生で一番、辛い年末年始だった。病気になって、会社も、仕事も、彼も、お金も、色んな物を失くして、これからどうやって生きていこう。そんなどん底だった。

年が明けて2日。私は家で本を読んでいた。代官山のTSUTAYAで見つけた「ホオポノポノ」の本。読み終えた後、私は急に心療内科をネットで探し始めた。自分は鬱病かも知れない。そう思って病院に行く決心をした。

心療内科で受診

年始で病院は休みだった為、私は6日に初めて受診した。優しい若い女性の先生だった。安心してこれまでの事を先生に一生懸命、話をした。
先生は「これだけ短い期間の間に、あなたに起こった出来事が大き過ぎるね」と優しく言ってくださった。私はそれから半年近く、薬を飲んで治療にあたった。

当時の私はとにかく、仕事関係の人たちとコンタクトを取りたくなかった。
妹からの連絡も絶っていた。連絡が来て、また仕事関係の話をされるのが怖かった。取引先のオーナー達にも頭を下げて、私はこの仕事を引退すると話した。その後も妹とヘアメイクさん達とは仕事を続けて欲しいとお願いし、約束してもらえた。

今考えるとまだ自分が出来ることはあったはずだし、私が抜けて迷惑をかけることはわかっていた。だけどこれ以上、精神が持たなかった。

友人との会話でも、時々頭が真っ白になって止まってしまうことがあった。
真剣な話や上手くいかなくなった恋愛について、友人から何か突っ込まれると、頭の中がフリーズして動かなくなる。友人も私にどう対応して良いかわからなくて、離れていった人もいる。

いつも意欲的で、前向きで、よく笑っていた私が変わってしまった。「自分じゃない、ごめんね、楽しい話ができない」そういった私に、檄を飛ばしながら泣いてくれた友人、いつも元気じゃなくていいんだよと寄り添ってくれた友人、金銭的にも苦しい状況だった私に、いつでも力になるから!と言ってくれた友人もいた。

私がどうにかなってしまわないように、ずっと誘い続けてくれる友人も、
私の状態が低血糖だと、サプリメントを一式プレゼントしてくれた友人もいた。みんなが助けてくれた。今こうして思い浮かぶ友人達ともうコンタクトを取ってない人が大勢いるけど、彼らはきっと、その時の私を助けるお役目を持って現れてそばにいてくれた。

日本でのヴィーガン生活

帰国してからも私は、インドのドクターから処方されたアーユルヴェーダの薬を飲んでいた。日本でのヴィーガン生活は思った以上に大変だった。まず、友達と一緒に美味しいものが食べられない。都内に住んでいても完全ヴィーガンのお店はそんなに多くはなく当時、友人たちにはかなり気を使ってもらっていた。

インドのクリニックでは自分で作る必要もなく、いつも決まった時間に食事が配られていたので食べることに悩むことはなかったけど、日本では自分で作らないといけない。よく見ると色んなものに「肉エキス」やら魚系のものが入っている。出汁もカツオやいりこはダメ。味噌汁も昆布だし、コンソメも野菜のものを選ばないといけなかった。アレルギーではないから、少しくらい入ってても良いのかも知れないけれど、私はかなりストイックに完全ヴィーガンを3ヶ月貫いた。

日本の医療機関で検査

インドのドクターシャシクマルから退院の際に、2ヶ月の投薬とヴィーガン生活が終わったら日本の医療機関で検査を受けてくださいと言われていた。

もし、悪い結果で癌になっていたら、もう円錐切除しようと覚悟を決めていたので、受診するクリニックもネットで円錐切除の上手な先生を探していた。その年の2月、私は広尾のクリニックで子宮頸がんの検査を受けた。

結果は「軽度異形成」だった。もう、経過観察だけで良いとの診断だった。帰ってすぐにドクターシャシクマルにメールで報告した!とても喜んでくれた。気になったのはまだHPVウィルスが見つかったと。これは自然に流れるのを待てば良いと言われた。また半年後にインドに来るように言われたけれど経済的な理由で私はインドには行かなかった。

それから、3ヶ月、半年、と定期検査を受けて半年後にはもうウィルスも発見されず完治していた。最近では1年前の2023年にジョージアの婦人科クリニックで検査を受けたけど、異常はなかった。

最後に

この経験から私が得たことは、人間は全て「いま食べているものが自分の身体の全てに影響を及ぼしている」ということ。それは将来の精神面でも肉体面、どちらにも。そして、医療は日本だけではない、色んな国で色んな療法がある。私は自然の薬と食事療法で癌に進行することなく完治した。

他にも日本人でインドでアーユルヴェーダを受けて、癌が治ったという方もいて、こうした貴重な体験を一人でも多くの人に知ってもらいたくて、実体験を綴った。

一番大事なのは医師任せにせずに、自分の身体は自分で治すという意志と自然治癒力だ。自分の選択、自分の身体に責任を持つこと。だと思う。

精神的なリスクも大きかったけど、私は自分の選択は間違ってなかったと思う。というか、もう大きく”見えないものに導かれて行った”というのが正しい表現だろう。人生を動かすほどの大きな出来事に、ガイドが守ってくれないわけがない。

スピリチュアルな事は信じない!と、現実だけを見てたけれど、
この経験で私に起きた数々の出来事を振り返ると、色んな人が色んな手で、私が正しい道に行くように、これを経験するように、導きサポートしてくれた。

今、私が生かされているのは、大きな見えない力と、それをキャッチして私をサポートしてくれた人たちのお陰。そして自分の治癒力を信じた私自身。

今ここまで読んでくださった方達の中で、近しい人で病気で悩み苦しんでる方がいたら、私のような体験をした人がいることを伝えて欲しい。私の経験が誰かの役に立てば幸いです。

アーユルヴェーダドクターを紹介して欲しい方や私へのご質問はこちらまで

hitomi_na@icloud.com


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