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複雑性PTSDのなおしかた

複雑性PTSDを持つ人たちは、自分の意志とは別に、真相の情動に動かされることがあると言われています。

また、その感情は、時に意識的な思考や願望とは逆行し、周囲に威圧的な印象を与えることがあるとも言われています。


なんとも難しそうな説明ですが、要するに心理哲学の方面から説明するなら、心の非言語領域である「永遠」に支配されている状態が複雑性PTSDです。


永遠とは、夏目漱石が言うところの「不可思議なおそろしい力」であり、芥川龍之介が言うところの「ただぼんやりした不安」です。


新海誠監督の「秒速5センチメートル」の中で、主人公のタカキは、この複雑性PTSDにおかされているのではないか? といったシーンが出てきます。

高校生くらいに「永遠」に心をおかされたタカキは、社会人になると転職を繰り返すようになります。やっとできた恋人とも深い関係を結ぶことができません。

部屋には安酒の空缶が何本も転がっており、習慣的にタバコを吸うキャラクターとして描かれています。


つまり複雑性PTSDというむずかしそうな病名は、じつは、心の非言語領域と言語領域の葛藤の末、非言語領域が心を支配してしまっている状態ということです。


例えば、夏目漱石の『こころ』に出てくる「先生」は、永遠に心をおかされて自殺してしまいました。要するに「先生」は複雑性PTSDだったのです。


この複雑性PTSDをどうにかしようと思えば、まず、自分の心の中にある非言語領域にどのようなものが入っているのかを知る必要があります。ようするに自分をおかしている敵をよく知ろうぜ、という、いわば当たり前のことをやってあげる必要がある。


永遠の中には、崇高な自分と邪悪な自分がいます。

崇高な自分というのは、例えば、中堅どころの高校に通う高校生が、高校生なりに学問における真理のようなものを志向するようになった結果、周囲の人を見下すようになる、怒りっぽくなる、「こんなレベルの低い学校に行きたくない」と言って不登校になる、といったようなことです。


つまり崇高な永遠が邪悪な永遠を呼び覚ましているということです。つまり、崇高さと邪悪さというのはコインの表裏、車輪の両輪なのです。


多くの人は、この永遠に蓋をして生きています。
見て見ぬふりをして生きています。

それを直視してしまえば、生きづらくなることは誰だってわかっているからです。


しかし、見て見ぬふりをしよう、蓋をしよう、と意思してもそれができない人もいます。

それは実力がないからできないのではなく、心の非言語領域、すなわち永遠というものはもともと、意思とはまったく独立に機能しているものだからです。


心の中の永遠を手懐けること、言い方を変えれば、「現実のこの自分」と「永遠」との折り合いをうまくつけること。

そのためには、人によっては職業を変えざるを得ないかもしれません。離婚せざるを得ないかもしれません。
心の問題は心の中だけで完結するものでなく、現実生活と深く結びついているからです。


非言語領域を言語化する。このことを、私の「自己肯定感を高めた人のためのオンライン心理学スクール」ではやっています。対話を通してしかできないから、スクールにおいてセッションを行っているわけですが、もしひとりでやりたい場合、永遠を具現化した思想を知るとやりやすいと思います。


例えば、フランスの精神分析家だったジャック・ラカンは、永遠を「シニフィアン連鎖のしつこさ」と呼びました。


フロイトは「死への欲動」と呼びました。


そういった確かな思想を手がかりに、自分の心の中の非言語領域を言語化してあげると、ある程度は複雑性PTSDが和らぎます。

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