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STORM 4

butterfly effect 4


 どうやって歩いているのかわからない。

ハーディの声が時たま聞こえて、ハーディの大きな手のひらが僕の背中に添えられている。
温かい。
仕方ないんだ、ヤヒム。
ハーディが何か言ってる。
きっと君のためになる。
なんだろうか。
森の中を歩く。
キャンプとは真反対の森の中を、僕はハーディに連れられて歩いている。
お腹が空いた。目がチカチカする。何も考えられない。
ハーディ。ハーディの暖かい声が、柔らかい声が僕を抱きしめる。
ハーディ、僕はどうすればいい?
大丈夫だよヤヒム、君は僕が守る。一緒に行こう。
何処に?どうやって?僕は。

母さん。母さんが死んだんだ、ハーディ。
大丈夫だよ。
ハーディ、どうしよう。
大丈夫、大丈夫。
草を蹴る音だけが響いてる。目眩がずっと治らない。
とうとう意識が飛びそうになって、倒れ込んだ僕の腕をハーディが支えた。
そしたら、奥の方から草を蹴る誰かの足音が聞こえてきた。

「ハーディ!」

 イレさんの声だった。
僕達に駆け寄ったイレさんは息を切らしながらハーディに捲し立てる。

「ナディアが!ナディアが戻ってこないんだ!朝から!ホープも一緒だ!どうしたらいい?!」
「落ち着いて」

 ハーディの声は本当に人を落ち着かせてしまう。
低くて甘くて、安心できるんだ。僕も安心してしまいそうになる。

「ヤヒムの体調が悪くてね………。キャンプへ送ったらすぐに私も探そう。大丈夫、きっと見つかるさ」

 焦っていたイレさんの雰囲気がふと柔らかくなった。
でもどうしてだろう、今度はハーディがなんだか苦々しく僕らを見ている気配がする。
視界が滲んで瞼が閉じる。
眠い。苦しい。眠い。
ヤヒム。
ハーディの声がする。
それでいい。ゆっくりお休み。
僕の頬にまた、何かが触れた気配がした。

 目が覚めた時、僕の隣にはルルワが居て、テントの外は既に暗くなっていた。
でも起きる気力なんかなかったから、一度深く息を吐いたあと、僕は再びルルワの手を握って寝ようとした。
そうしたらルルワが僕の手を握り返してくれた。
霞んだ目を開いてルルワを見た。
心配そうな顔で僕の手を握ってくれているルルワがいた。ルルワ。

「よかった。ヤヒム」

 ルルワの声。
優しくて高くて僕の胸を振るわせるルルワの声。
ルルワの声を聞いたら母さんの、あの哀れな最期が蘇ってきた。
僕が、母さんを掴んでたら。
僕がイムワットだ、なんて叫ばなければ。
母さんが誰よりも欲しかっただろう腕、ルルワの腕を掴んで縋った。
そのままルルワの胸に顔を埋めた僕は声を出して泣いた。
ルルワの香りは太陽の香り、泉に乱れ咲く赤い花の香り、その香りを吸い込んで僕は泣いた。
大声で泣いた。泣き続ける僕の髪をルルワがずっと撫でてくれていた。
ルルワは何も聞かなかった。
一方的に僕はルルワに喋り続けた。
泣き声の情けない声で、彼女に縋り赦しを求めた。

「母さんが、死んだんだ」

ルルワの体が強張った。
そして今度は僕の頭を抱き抱えてくれた。

「押されたんだ、ハーディに。君のためになるって」

 涙と鼻水がルルワの衣服にシミを作る。
でもそんなの構っていられなかった。
母さんが死んだ。母さんが。僕の目の前で。
しゃくりあげながら泣き続ける僕を黙って抱きしめてくれていたルルワが徐に僕に言う。

「………ねえ、ヤヒム。逃げましょう。ここから」

 顔を上げて僕はルルワを見た。
ルルワの目は厳しく、そして正しく現状を理解している。
直感でそう感じた。

「でもハーディが」

 ハーディがどうしたんだろう。
でもその時の僕は、ハーディを置いていくなんて出来ないと思っていた。
ハーディがいなきゃ生活もままならないって。
そんな情けない僕を奮い立たせる告白が、ルルワからもたらされた。
ハーディは嘘つきだったんだ。ハーディにもルディにも僕らは全く、騙されていた。

「ヤヒムには、言えなかったけど……何度かルディに、着替えを覗かれた」

 熱くて暗い喪失の闇が一瞬で埋められた。
母さんの喪失を完全に埋めたのは、ルディに対する怒りだった。

 ルルワの手を引き走りながら僕は思う。
今考えればおかしなところだらけだ。
ハーディは他の国を知っていた。
ハーディのあの逞しい肉体はどうやって作られたのだろう。
内戦中のこの国で、アレだけの物資を集めてこれる人間とは?
ハーディと生活をしていた二ヶ月か三ヶ月の間、彼は一度も飢えた様子を見せなかった。

悪人はいつも優しい顔をするものだ。
自分を守るのは知恵と勇気、悪人の嘘に誑かされぬ高潔さ。
飢えても犬にはなるな、誇り高く狼であれ。いくつもの聖句が頭に回る。
イムワット、アーレーイムワット、貴方の教えが僕達を守りました。
草や枝に皮膚を引っ掻かれながら走る。
これからどうなるのか、なんて考えられなかった。
ルルワは僕の光、僕の魂、僕を救ってくれた女神。
何をおいても僕はルルワを守る。
ルルワだけは何をしても守ってみせる。
月明かりだけが僕たちの味方だった。
草むらをかき分けて、一歩でも半歩でもハーディから離れなければ。
岩が膝小僧を削った。砂が口の中を傷つけた。
構わずに走り、歩き続けた。
何処に向かっているかなんてわからなかった。
月明かりを頼りに前へ、前へ足を進めた。

どのくらい経っただろう。
月がゆっくりと西に傾き始めている。
もうすぐ夜明けだ。ここまでくれば、と僕は思った。
体も疲れていた。お腹も空いていた。
母さんのスープは食べられなかったから、もう四日近く何も食べていない。
森の斜面の木の影に腰を据えて二人でうずくまった。
僕達は体を寄せ合って、冷え始めたコヌヒーの夜を耐える。
お互いの温度だけが拠り所の夜に、空腹を無視しながら耐える。
僕の首元にいたルルワが息を吸った気配がした。
ねえ、と発しそうになったルルワの口をそのとき何故咄嗟に塞いだのかわからない。
でも僕は正しかった。

 森を歩く足音が聞こえた。
そして低い男達の会話が聞こえた。
僕たちは小さな体をさらに小さくしてイムワットに祈る。
イムワット、イムワットどうかお守りください。
貴方の育てた木々が僕たちの姿を隠してくれますように!
足音はすぐ近くで立ち止まった。
聞き覚えのある声が聞こえた。
カンテラに照らされているのは、ハーディと消えたはずのルディの姿だ。

「東部戦線はどうなってる」

 ハーディが口に葉巻を咥えてルディに聞いた。
優しくて逞しかったハーディの声は、カンテラの中で卑しいモンスターの声に変わっている。
ルディもそうだった。

「芳しくはないな。指導者が無能だ。どいつもこいつも特攻させやがる。ここに居たガキどもの殆どは東部へ送ったが、まぁ生きちゃいないだろうな」
「いっその事本国から兵隊呼んだ方が早いんじゃないか」

 ハーディの言葉に肩を竦めたルディが答える。

「要請はしてる。ここ最近は俺達を狙った傭兵が暴れてるからな。ディビットとジェシカも殺された。本国と密に連絡は取ってるが、こりゃあそろそろ引き上げどきかもしれん。だがまあこれだけ内政が崩れりゃ、戦争してももって三日だ」

 ルディの言葉に、小さく頷いているハーディの横顔が見えて、僕は震えた。
息をする事も怖かった。

「迎えはくるのか?それとも適時離脱か?」
「ここから南に10キロ地点の砂漠に、逃亡用の機材を隠してある。明日辺り確認がてら行ってみてもいいな」
「悪いがそのまま俺は離脱するぜ。やる事はやった。分断工作に兵隊の補充、ロビイングまで。酷い職場だな本当に。少しはいい思いしたいもんだ」

 そこまで言って二人は、互いに鼻を鳴らしてほくそ笑んだ。
何かを自嘲したその笑いはつまり、僕達の価値の無さに直結する。
冷たい笑いを聞いたルルワの手が、僕の手を強く握りしめた。
じ、と何かを擦る音がして煙の香りが辺りに漂う。
ルディの口元にも葉巻が咥えられた。

「良い思いならしてるだろう。息子の側でよくやると思ったよ」

 ルディが愉快そうに笑う。

「よせよ。仕事だからデキたんだ。気の狂ったババアの相手だぞ?何回か抱いてやったら即座に機嫌が治りやがった。まぁお陰でガキの方はえらく懐いてくれたがな。ああクソ、ガキ売り飛ばす際に邪魔が入ったんだった。最悪逃げられるかもしれんがどうせ子供だ、距離は稼げん。あの二人はどうする?」

 喉が震える気配がした。
滲んできた涙を飲む様に僕は耐えた。
母さん。落ちていく母さんの姿がはっきりと思い出せる。
君は悪くない。そう、僕は何も悪くない!

「女の方は東部だな。慰安婦が足りない。中々いい体つきをしてる。俺の目だぞ?間違いはねえさ。一回買ってやろうかと思ってるからな。ガキの方は西部がいい。根性はありそうな奴だったからな。ヨーセフに預ける」
「大丈夫か?嫌われてるだろう、俺達は」

ハーディが煙たそうに目を細めて葉巻の煙を吐き出した。
その煙を払うように手を振ったルディが口を歪めながら彼に言う。

「反乱軍にもう頼るものなんかねえさ。停戦したくてもこれだけ殺し合えば報復感情が先にくる。行くところまで行かなきゃ止まれない。その為には物資がいる」
「自分たちの神を殺した対価で戦争か。皮肉なもんだ」

 笑う二人の声を聞いて僕の体は怒りで震えた。
僕の手を握っているルルワもまた、耐え難い屈辱に耐え忍んでいる。
勇気をください、イムワット。
僕は祈り空を見た。
この悪漢どもを罰する力を、勇気を!
笑い声が僕の腹を探る。僕の怒りを混ぜて練り上げる。
それを使命に変えて僕は立ちあがろうとした。
ルルワの手もそれを止めなかった。

「………誰だ?」

 ハーディの声だ。
それから空白があった。
だが、二人の視線は暗がりの僕らじゃなく、逆の方向へ向いている。
草むらをかき分ける音がだんだんと近づいてきて、カンテラの灯りの前に一人の男性が現れた。
ボロボロのフードをかぶっていて、表情も服装もわからない。そいつが言った。

「………頼む、食料を分けてくれ」

 その弱々しい声に、緊張した二人の空気が一瞬でほぐれた。
腰も低く、曲がった背中がフード越しでもわかったからだ。
そこから出ている弱々しい声も、ハーディの欲を刺激した。
即座に善人の顔に戻ったハーディが、彼を労るように手を広げ、肩を抱いた。

「大丈夫か。あんた。食べ物はある。キャンプも設置済みだ。さあ、こっちへ」

フードの男がよろめきながらハーディに近づいた。
ハーディの肩に支えられた彼が、ハーディの腋の下で何事がを呟いた。
それから全てが一瞬で決着した。


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