無料記事『子どもたちのための表現規制入門2(中編)』2024-01-31
前編はこちらです。
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3.強い男ってどんなひと
前回の文章でぼくは、女のひとには強い男のひとだけを好きになる「本能」があると言いました。
でも、強いひとってどんなひとでしょうか。
あ、心配しないでください。
親とか学校の先生とかの大人が、子どもにむかってこんな質問をするとき、たいていは皆さんに答えさせておいて、すぐにその答えを否定して「いや、そうじゃない。本当の強さというのは……」といばって、お説教をしてやろうとたくらんでいる時ですね。
でも、ぼくはそういう意味で聞いているんじゃありません。
「力もちであること」
「たくさんのケンカに勝つこと」
「病気になりにくいこと」
「なんど失敗してもあきらめないこと」
いろんな強さがありますが、そのどれもが強さです。
では、女のひとたちの「本能」がもとめている男の強さとは、それらのうちどんな強さでしょうか。
むずかしいですよね。
ヒントをあげましょう。
この本能は、人間のよのなかにまだ学校も会社もない、いわゆる「原始人」だったころから、女のひとたちのなかに育ってきた本能なのです。
石のやりをもって、ほら穴にすんで、動物の皮を服にして着てたようなころからです。
「…….あっ!そうか!! 狩りがじょうずな人のことじゃないかな?」
おっ、もしその答えにたどり着けた人がいたら、あなたはとても頭がいい人なのでしょうね。
たしかに狩りは原始人の生活にとってとてもだいじなことで、強いひとがいなければ狩りを成功させるのはむずかしいでしょう。とくに、あいてがマンモスのような大きなえものを狩るばあいには、なおさらです。
でも、じつは「原始人の狩り」ということだけをみても、さらに色んな強さがそこに必要になるのです。
マンモスをみてもこわがらずに、石やりをもって真っ先に戦う勇気がある男は、もちろん強い男です。
でも、やっつけたマンモスの肉を持ってかえるときに、重い肉をかかえて歩き続けることができる人も、やっぱり強いひとです。
マンモスが来るのをまって、暑さや寒さやのどの渇きにたえて、ずっと隠れて待ち続けていられるという我慢づよさがある人も、強いですよね。
さらに、マンモスの足あとを見つけて、それがどんなに長い足あとでも、あきらめないでずっとずっと追いかけていき、とうとうマンモスがどこにいるか見つけて、みんなに知らせて来たひとも、もちろん強いひとです。
どうでしょう?
ひとくちに「狩り」といっても、そこには色んな強さが必要なのです。
原始人のくらしは単純なように見えて、じつは今のぼくたちのくらしと同じように、色んなひとの色んなつよさに支えられているのです。
だけど原始人のくらしを考えるとき、ひとつ考えに入れておかないといけないことがあります。
それは、女のひとたちは、あんまり狩りについては来ないらしい、ということです。
原始人の時代には、男のひとたちが狩りをしに行っているあいだ、女のひとたちは木の実を探してきたり、赤ちゃんのお世話をしたりしていたようです。もちろん、これだってだいじな仕事です。
さて、そうすると、女のひとたちには、狩りで男のひとたちがどんな働きをしたのか分かりません。
困りましたね。
狩りでどんな働きをしたかで強さをはかろうにも、女のひとたちは狩りを見ていてはくれないのですから。
いったい、原始人の女のひとたちは、狩りのいつどこで男たちの強さを見わけたのでしょうか。
それは、持って帰ってきたえものの肉を分けるときだったと考えられます。
狩りのえものはもちろん、みんなでたべるわけですが、いばっていて、ほかの人たちよりもたくさんのえものをもらっていたり、分ける肉をめぐってケンカになったときに、ケンカに勝ってたくさんの肉を取ることができた人、ということです。
分けるときにたくさんもらっている人は、きっと狩りですばらしい働きをした強い人か、ケンカがつよいのでこわいから、みんな怒らせないように食べものを多めにくれるのでしょう。
つまりこれが、女のひとたちが、原始人のころからおぼえている「強い男」の見分け方だったのでしょう。
女のひとの「本能」にとって、男のつよさとは「いばっていること」や「ほかの人たちにほめられていること」なんです。
4.「オタク」がもてない理由
さて、原始人のお話はそろそろあきましたか?
じゃあ、いまの時代に戻りましょう。
学校ができて、会社ができて、世のなかが今のようになりました。そして、マンガ家という職業ができました。テレビが発明されて、アニメ番組もつくられるようになりました。
さて、ここでアニメやマンガが好きなみなさんに、ちょっとざんねんな現実を言わなければなりません。
それは、アニメやマンガが好きだというのは、人にいばってみせたり、ほめられる理由には、あんまりならないということです。
勉強ができると先生にほめられますし、テストでもみんなよりすごい点を取ってみせられるので、この子はすごい子だ、ということがまわりの人にも分かります。
スポーツができる子もそうです。友達とサッカーやドッジボールをしたときに大かつやくできますし、体育のじかんにもみんなに感心してもらえます。
ケンカが強い子も、もちろん子どもたちのあいだではいばる理由になります(むやみにケンカするのはよくないことですが)。
本を読むのが好きなひとも、もしそれがむずかしそうな本であれば「うわっ、むずかしい本をよんでいるなあ。あたまがよさそうだなあ」と思ってもらえるかもしれません。
でも、アニメとかマンガを見るという楽しみは、あんまり人に見せて感心してもらうチャンスはありません。アニメやマンガをどれだけ好きかというテストも学校ではやってませんし、好きさを競いあう大会があるわけでもありません。
マンガを読んでいて「そのマンガむずかしそう」と思われることも、あんまりありません。わざわざ絵をじょうずに使って、お話を分かりやすくしてくれているのがマンガだからです。
もちろん、マンガやアニメそのものは、とてもおもしろくて素晴らしいものです。
だけど惜しいことに、あなたがそれを楽しんでいるところを人にみせて「すごいね!」と思ってもらうのは、ちょっとむずかしい楽しみなのです。
そういうわけで「アニメやマンガが好きな男の子」はあんまり女の子に人気がありませんでした。
女の子たちが原始人の時代から本能として持っている「いばっている男がすき」「みんなに褒められている男がすき」というタイプにあわないからです。
そのため、世のなかのおおくの女のひとたちは、アニメやマンガをすきな男の子たちのことを、もともとあんまり良く思っていなかったのです。
そして1989年――ちょうど今から35年まえ、とても悲しい事件が起きてしまいました。
それは、東京都と埼玉県で、ある男が、4人ものちいさな女の子ばかりをさらって、とうとう殺してしまったという事件です。
5.オタクがいじめられた時代
この事件は、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」とか、犯人の名前をとって「宮崎勤事件」と呼ばれています。
この犯人は、体にすこし障害があって手の向きをじゆうに動かすことができないとか、いろいろ悩みを抱えていたようで、気の毒なこともあったようです。解離性人格障害という、むずかしい名前のこころの病気を持っていたのではないかとも言われています。
もちろん、だからといって、何も関係のない小さな女の子たちをさらって殺してしまうなんてことが、許されるはずがありません。
「それはわかったけど、でも、それがアニメとなんの関係があるの?」
それを説明するのはすこし長いお話になってしまいますが、ぜひ知ってください。
彼のやったことは、もちろん、とてもとても悪いことです。
でも、悪いひとでも、ずっと悪いことばかりしてるわけじゃありません。ごはんも食べるし、おふとんで寝るし、買いものもします。そういういみでは、ぼくやみなさんと同じです。悪いこと以外の楽しみも持っています。
この犯人の男のふだんの楽しみは、テレビ番組を録画した「ビデオテープ」というものを集めることでした。
ビデオテープというのは、テレビ番組などの映像を記録するためにそのころ使われていたもので、今でいうDVDやブルーレイみたいなものです。ただし、DVDやブルーレイみたいにキラキラしたうすくて丸い板ではなくて、長方形の箱のような形をしています。
子どもの運動会のようすをお父さんお母さんが撮影するときとかも、今のようにスマートフォンではなくて、ビデオカメラというとくべつな機械で撮影したものを、このビデオテープに保存していたのです。
さて、みなさん。
今のみなさんは、少し前に放送されたアニメやドラマをまたみたいと思ったら、どうするでしょうか?
たぶん、インターネットで配信されているものを見ると思います。
また、ブルーレイやDVDにまとめたものも売られています。ずっと持っておきたいというほど大好きな番組であれば、そういうものを買うかもしれません。
でも、この頃にはまだインターネットがなく、また、ほとんどのテレビ番組はまとめて売っていたりしませんでした。むかしはたいていのテレビ番組は、その日に放送したらそれっきりで、見返すことはなかったのです。
もし「また見たい」ということがあったら、放送されたときに自分でその番組をビデオデッキという機械を使って保存しておくか、誰かが保存しておいたものをゆずってもらうくらいしかありませんでした。
なかには、テレビ番組がすきで、録画したビデオテープをたくさん持っていて、まだ持っていない番組が入っているビデオテープを友達ととりかえっこしたりしていた人たちもいたようです。そういう人たちを「ビデオコレクター」といいました。コレクターというのは「あつめるひと」といういみの英語です。
この宮崎勤という人も、そういう仲間のひとりでした。なんでも6000本くらいビデオテープを持っていたようです。
それだけたくさんあるのですから、彼が集めていたビデオテープの中には、少しはアニメもありました。たまたま持っていた本のなかに、マンガも少しだけありました。
少しだけ、たまたまあったという感じです。別にアニメやマンガばかりたくさん集めていたわけではないのです。どっちかというと彼は特撮番組――つまり、今のウルトラマンや仮面ライダーみたいなもののほうが好きだったようでした。
でも、テレビや新聞は、事件をつたえるニュースのなかで、この宮崎勤のことを「アニメがすごく大好きな人」としてくりかえし強調しました。
それどころか、世のなかにいる、なんの関係もないアニメ好きの人たちのことまで、まるで「宮崎勤みたいなひと」だというように、何度も何度も、くりかえして言い続けたのです。
そのせいで、おおくの人たちが、アニメやマンガについて、へんな考えを持つようになりました。
「マンガやアニメなんて、子どものためのものだ。
それを大人になってもすきだなんて、どこかおかしいやつにちがいない。
そんなやつはきっと、ふつうの女のひとと友だちになれないし、もちろん恋人になったり結婚したりもできないから、かわりにアニメの女の子をみてたのしんでいるんだ。
そのうちにアニメを見るだけでは満足できなくなって、宮崎勤みたいに小さな女の子を誘拐したり、人ごろしをしてしまうだろう」
そんな、とんでもなくまちがった考えかたを、当時の人びとはするようになってしまったのです。
こういう、誰かについてのまちがった考えかたのことを「偏見」といいます。
こんな偏見はアニメやマンガが好きなだけの「おとなしい男のひと」がきらいな女のひとたちの本能にとって、とてもつごうがいいものでした。
また、不良少年――つまり、らんぼうでケンカ好きな男の子たちにとってもつごうがよかったのです。というのは、そういう女の子たちの気をひくためにも、アニメ好きの男の子たちをわざわざいじめたりして、女の子の前でいばってみせることができたからです(原始時代から、女の子は「いばっている男」がすきなのだという話を思い出してください)。
それまでは、たとえきらいであっても、おおっぴらに悪口を言ったり、いじめたりすることはなかなかできなかったのですが、「アニメ好き=子どもをさらったり人ごろしをするやつの仲間」と思ってしまえば、どんなひどいことでも平気でできたのです。
こうして、ただマンガやアニメが好きなだけの人たちが、学校などでいじめられるようになってしまいました。
信じられないかもしれませんが、そういうオタクのひとだけを狙って、暴力をふるったり、強盗をしたりする「オタク狩り」とよばれる事件まで起こるようになったのです。
その人たちはなんにも悪いことはしていないのに……。
こういう時代が、なんと20年ちかくも続きました。
(続く)
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