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【バイバイ・ヴァンプ!】

 2019年2月14日公開の日本映画。
 茨城県にある高校を舞台とし「噛まれると同性愛者になる」という吸血鬼(ヴァンプ)の侵略に抵抗して戦う少年少女達のストーリー。
 ロケは実際に茨城県境町の協力を得て現地で行われている。

 これがネット上で「同性愛者への差別」であるとされLGBT活動家などによる上映中止運動が起こり、一部の劇場は興行予定を短縮した。あろうことか、自身がゲイである立憲民主党の石川大我参議院議員がこれを支援したのである。
 何が「あろうことか」なのかというと、石川大我はその選挙期間中「表現の自由」を守ることを掲げ、自民党の山田太郎議員や同じ立憲民主党の川田龍平議員らと並んで期待されていた存在だったからである。
 あまりの手のひらの返しっぷりに「ホモは嘘つき」というネットスラングを思い浮かべた人も多かったのではないだろうか。もしそうならばLGBTへの偏見を強めたのはこの映画ではない、石川大我自身である。

 そもそもこの映画が現実の同性愛者差別を助長するというためには、それが現実的だと観客が信じる必要があるが「同性愛者は吸血鬼に噛まれてなるものだ」と信じる者などいるはずがない。
 確かに同性愛者たちの描写は場面によっては極端であり、同性愛が蔓延したことを示すシーンでは乱交状態になっていたりもするが、だからこそ非現実的でもある。
 しかも本作で少年達が「ヴァンプ」と戦うのは、同性愛が悪いとか嫌いだとか考えたためではない。それどころか作中には「個人的な趣味なだけじゃん」と同性愛者を擁護するセリフさえもある。
 主人公が戦うのは、自分自身の現在の恋人に対する愛情を守りたい、奪われたくない(ヴァンプに噛まれてなるのは両性愛者ではなく同性愛者のため、異性愛者が噛まれると現在の恋人への性的な愛は消えてしまう)という気持ちからである。
 これはまさにLGBTが求めてきたのと同様の権利であることに注意する必要がある。
 彼らは同性愛者を根絶しようとしているのではない、自分の性の権利を守ろうとした話なのである。

 細かく見れば、たとえば「個人的な趣味なだけ」という同性愛者を擁護する台詞が、すでにヴァンプ化して同性愛者になった者の口から出た台詞であり、自己弁護であって作中の第三者による評価ではないなどの、問題ともいえない程度の問題点を見つけ出すことはできるだろう。また異性装のヴァンプが登場することも、ゲイとオカマの区別がついていないという偏見の表れと見ることができるかもしれない。
 しかし別にヴァンプが全員異性装というわけでもないので「同性愛者には異性装者もそうでない者もいる」というまっとうな事実を反映しているとみてもなんらおかしくないのである。

 すくなくとも一昔前の映画であればもっともっと無神経で偏見的な映画は幾らでもあったはずで、とても石川大我の言うように「この世にあるLGBT差別、偏見をすべて集めたような映画」だとはとても思われない。たまたま作中のヴァンプの名前が“大牙”だったからヒステリーを起こしていると見られても仕方がないだろう。

 いくら自分自身が同性愛者だからと言って、この変節はあまりにも酷いものであったが、その弁解もまた最低レベルのものであった。

 これはフェミニストをはじめとする「民間」が表現物に圧力をかける時の言い訳そのものであり、なおかつ公開停止を求めている本人が国会議員である以上、それすらも成り立っていない。お前は民間人じゃない。

 市民の自由な議論とやら、すなわち集団の圧力で公開の可否が決まるのならば、そんな社会は「表現の自由」が守られているとは到底言えない。市民の自由な議論が決めていいのは、その内容の評価であって公開の可否ではない。
 
このすり替えは、のちの2021年10月31日参議院選挙前に日本共産党が【非実在児童ポルノ】について変節したとき「社会的合意」によるなら禁圧してよいと言い放ち、信頼失墜したときとまったく同じである。
 公にされた前後にかかわらず、公開そのものは市民の自由な議論がどうであろうが、常に可でなければならないのだ。

 さらには撮影に協力した自治体の「責任」まで糾弾し始めるに至っては「市民の声」どころではなく、完全に地方行政による検閲を求めている。

 結局、石川大我が「表現の自由の擁護者」だったのは選挙期間中だけに過ぎなかったのだった。

 なお、本作への批判に対しては、映画公式が声明を出し「同性愛を差別する作品ではない」ことを表明している。

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