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2024.4.17

今日は、平日休み。
実は2ヶ月ほど前から、左足の人差し指から小指にかけて歩くたびに鈍い痛みが走っていた。その為、整形外科に向かっている。


私は病院に行くまでに時間がかかる。
まぁ、大丈夫だろう。と結構放っておくことが多い。
自分のこととなると、何でもかんでも後回しにしすぎる性質がある。
「性質」なんてかっこつけているが、単にただ怠惰なだけだ。
美容院に行くのもなんだか「今じゃないな…。」とか言い出すし、役所に必要な届け出をしに行くのもめちゃくちゃ時間がかかる。

基本的に、やりたいときに、やりたいことをやるという、大学生の時の悪癖が染みついているため、自分の様子を自分で、伺い、
「あ、今日は役所に行けそうだな」みたいなタイミングを見計らはないと、なかなか行けないのである。
もう、社会人も2年目になろうというのに、社会適合性が低すぎる。我ながら何を我儘なことをと思う。

今日は、足もだいぶ痛かったので、整形外科へ無事到着。
ー本日の受付は終了いたしましたー
あれ!?
しっかり予約をしたのに…。予約画面を確認すると、受付時間を30分自分が勘違いして到着している。
あちゃ~…。まぁ、いいか次の機会で。
(そもそも、通院への向き合い方が足りないのである)


景色があまりにも夏だったので見てほしい。
空と雲のコントラストが、夏過ぎる。本当に4月中旬なのか。
日差しが痛い。4月からこの調子では、夏の暑さが思いやられる。


今日は、帰り道に本を買った。

頭木弘樹さんの『口の立つやつが勝つってことでいいのか?』だ。
まだ、半分くらいしか読み切れていないけど、かなりサクサク読めて、面白いです。



私は、言語化をすることで、初めてそのことに納得できる。
だから、できるだけどんなことでも言語化をした方が良いと思っているし、どんなことでも言語化できるように、人よりは少し意識をして生活している。
例えば、それは、自分の感情だったり、自分が感動した出来事だったり、時には自分がとった選択を自分で確かめるように言語化をすることもある。

言葉にできないことや、言葉にしないと見過ごしてしまうものを、あえて言葉にすることで初めて私は私の気持ちに納得がいき、安心し、気持ちを受け入れられる。
だから、私は日々の暮らしの中で、「言葉にすること」を大切にしている。

今見たものや景色、感情は、言葉にしなければ、すぐに忘れてしまうと思ってしまう。

しかし、この本では、「言語化できない方が当然である」と言っている。

言語化ができないものは、見える形に表すことできができない。
自分の中で、消化不良の「何か」として滞在し続ける。

私は、言語化できないものは、触れることができないから自分の中でどこか価値のない現象や、感情と、追いやっていた部分がある。

例えば、恋人通しで相手のどこが好きかどうか言い合えるカップルの方が、相手の価値が明確にわかっていて尊重できるような気もするし、
好きなアーティストの音楽ついて、「どこがすきか?」聞かれたときに、何も答えられない人より、多くの好きな箇所を答えられる人の方が、
その好きなアーティストの価値を理解しているように感じる。

しかし、筆者の実体験も踏まえ、筆者は本当に好きであればあるほどむしろ語れないのでは?と言っていた。

さらに筆者は、本作の中で
「言葉にできる思いは本当にごくわずか」「この人にはもっと言葉にできない思いがいっぱいあるはずだという気持ちで相手に接するべき」と言っていた。

言語化することが、まるで正しいと思い込んでいた私には衝撃の文章であり、同時に、気張らなくてもよい、ありのままでよいと言われているような気がした。この筆者はとても想像力があり優しい人なのだろうと思った。

言葉にできない思いは存在していて、もしかしたらそれはあの人にも、私にあるのかもしれない。




PS :
今日はたい焼きを2つ食べた!!

しかも羽付!


おやすみなさい。






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