いのちとこころのこと。

 日差しが照りつける昼下がり、並んで歩道を歩いていたムスメがいつものように唐突に言いました。

「わたしが死んだら、おかあさんも死ぬの」

 ちょっと考えてみましたが意図がさっぱり想像できず、いつものようにムスメに尋ねました。
「どういう意味なのか、もう少しかみ砕いて説明して貰えるかな」
「だって一緒に天国に行きたい」

「…ああ」
 なるほど、天国と死という言葉に驚いたけれどそれらは比喩で、ただ一緒にいたいという意味だな、と妙に納得しながら、適当な相槌を打ちました。
 ムスメはそのあともいつもにようにどんどん喋り続けて、『わたしだけじゃなくて、おかあさんに何かあってもその子供と夫も一緒にいく仕組みだから、おかあさんかわたしの身に何か起きたら、わたしの夫(=ムスメの夫)と何人かの子どもたちも一蓮托生だから、長生きしなきゃ』みたいな妙な理屈で、この話は締めくくられました。

 最近ではあまり口にしなくなった、死という単語が出てきたのが意外でした。
 ムスメは幼少期から、折につけ『ずっといっしょにいようね』と折紙などに書いてくれました。また、『生きてるってなあに?死ぬってなあに?いのちがあるってどういうこと?』といのちのことを度々質問してきました。
 今回の発言は何がきっかけになったのだろうと考えたときに、先日の川崎での事件が思い出されました。

 バス待ちをする小学生の列に刃物を持った男性が襲いかかり、一瞬にして理不尽に命を奪い、大勢の人を理不尽に斬りつけていった凄惨な事件。
 事件を受けて、各地の幼稚園や小学校学校で、登下校時の見守りの強化など、警戒を強めています。『類似の事件が誘発される可能性がある』と注意を促すニュース記事も見かけました。近所の学校に通う子供たちも、登下校に関して先生から不審者に警戒するなど何かしらの注意喚起を受けていると思います。

 ムスメはもしかしたら、同じ小学生である少女と、べつの児童の保護者の男性の命が奪われたこと──つまり、ずっと一緒に居られると信じていた家族を突然喪うこと──に対して、そのちいさな体で考えを巡らせて、『一緒に天国に行きたい』という言葉で表したのかも知れません。

 「わたしが死んだら、おかあさんも死ぬの」という言葉は、「わたしも生きてて、おかあさんも生きてるの」という言葉と同義で、『ずっと一緒にいたい。今日も明日も同じように一緒にいたい』という、只それだけの仄かな願いです。


 当事者の、被害に遭われた方々、そのご家族やご友人、学校関係者の方々、周辺地域にお住いの方々が、心身ともに負われたダメージの深刻さは計り知れず、想像することしか出来ず、ただ胸が痛むばかりです。

 ネット上のニュース記事で犯人に関する情報が少しずつ明らかになっています。押収された雑誌のこと、中学時代のこと、親戚と暮らしていたこと、それらの事柄から自殺に至るいくつかの憶測を立てることはできます。
 ですが、そこに焦点をあててSNSなどで過剰に騒ぎ立てるのではなく、報道番組などでことさら事件の凄惨さを取り上げるのでもなくて、被害に遭われた方々とそのご家族、周囲の方々の心のケアが最優先されますことを切に願います。

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